今井城は城の200m南を流れる露川の氾濫により浸食された台地上に築かれた要害で東西の二つ郭により構成されています、今井城の築城年代は出土品などから見て鎌倉後期から南北朝期と考えられその後文明年間以降に大々的な改築が行われています、当初城の縄張りは西の主郭のみで東の郭と主郭から北の露川支流へ向かう緩やかな斜面上に在る空掘、土塁などは後の改築時に増設されたと考えられます、この様に中世初期の単郭式の武士の館に堀、郭、横矢の仕掛けなどを増設して要害に改築された城郭は武蔵国ではよく見られ石神井城、菅谷館、青鳥城、蕨城などもこれと同様です。
主郭
郭の東、北、南を土塁、空堀で囲み西側は過去の露川の氾濫により侵食された段丘と成っています、築城当時この方形状の郭が今井氏の館であったと考えられます。
主郭を囲む空堀と土橋
東、北、南の三方を空堀で囲まれて北と東の虎口には土橋の跡が残っています。
主郭西の段丘
主郭の西は侵食により形成された段丘状と成っています。
東の郭
東の郭は15世紀末から16世紀の間にこの城が改築された時点で新たに増設されたと考えられています。
主郭北の空堀と土塁
主郭の北側は露川の支流に向かって穏やかな斜面と成り斜面を押さえる様に三重の土塁、空堀が築かれています、この土塁、空堀も東の郭と同様に改築時に新たに設けられたと考えられています、更にこの付近より大量の板碑、墓石が発見されてそれら板碑、墓石が埋め立てられていた事から改築時点で今井城の主が交代したものと予測されています、それら出土した板碑の中で最も新しい物で1482年(文明14年)と刻まれているのでそれ以降に如何なる理由かで城の主が代わり新期に城に入った主が旧主の遺物の墓石、板碑を埋め立てた可能性がありると予側されています。