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                       小沢城



          
   
                     (小沢城天神山、井溝址)


   小沢城写真

     
     築城年代 鎌倉初期


 新編武蔵風土記稿に「小沢小太郎が居城なりしと云う」、小沢小太郎なる人物は稲毛三朗重成の子小沢次郎重成と同一人物とされています、稲毛重成は鎌倉幕府の功労者でしたが1205年(元久2年)北条氏の独裁体制を築こうとする北条義時に殺害され稲毛氏は滅亡しています、その後の小沢氏はどの様な経路をたどったかわかりませんが小沢城その物は幕府の拠点鎌倉の最終防衛ライン多摩川沿いに築かれている事から重要視されました。




                         鎌倉末期から南北朝期

 
1333年(元弘3年)新田義貞は鎌倉幕府倒幕の為上野国で著兵小手指原(現所沢市)、久米川現(東村山市)で幕府軍を破り分倍河原で10万余の幕府軍と戦います、分倍河原から付近の関戸城、小沢城には当時幕府軍の兵が詰め寄せていました、多摩川河川沿いに点在する関戸城、小沢城、枡形山城、作延城、加瀬城などの諸城は幕府の前線の要害、最終防衛ラインだったのです。
 1351年(観応2年)南北朝騒乱の最中、将軍足利尊氏と弟直義の不和により起きた観応の擾乱に措いて尊氏方の高麗経澄は府中攻略の為に小沢城を落城させました、当時多摩川矢野口の渡しは重要な交通路で矢野口の渡しを押さえるには小沢城を占領する事は必要不可欠であったのです


                                
                         戦国期に措いての小沢城

 さて戦国期に措いても小沢城の役割は同様で多摩川交通路を押さえる為の城でした、1524年(大永4年)北条氏綱に江戸城を攻略された扇谷上杉朝興は1530年(享禄3年)江戸城奪回すべく反撃を行い多摩川河川沿いの小沢城を落城させました。
 小沢城は鎌倉期から戦国期にかけての数百年に渡り多摩川交通路を確保する上で重要視されてきたのです。 


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