築城年代 16世紀以前
勝沼氏は武田信玄の父である武田信虎の弟「勝沼信友」に由来する氏族です、勝沼氏は信虎、信玄をを通して最も信頼のおける重臣であり甲斐武田氏の軍事的主戦力でもありました。
信虎の郡内地方への侵攻
1509年(永正6年)甲斐国の統一をめざす信虎は甲斐国内で敵対する小山田氏の領有する郡内地方へ侵攻します、この侵攻により翌年の永正7年には小山田氏を屈服させ小山田家当主の小山田信有に信虎は妹を嫁がせ講和を成立させました、しかし同盟関係は結びましたが小山田氏は以前郡内地方で力を保ち続け何時武田氏に敵対するかわかりませんでした、そこで信虎は弟の信友を小山田氏の権勢の為に目付役として勝沼に配置し信友は勝沼信友と称してこの地に館を構えます。
山中の戦、信友の死去
勝沼氏の役割は小山田氏の牽制のみではありませんでした、小山田氏は以前の武田氏との抗争の最中に小田原北条氏とも敵対していました、その為勝沼氏は小山田氏に牽制をかけると同時に軍事的支援も行っていました、1535年(天文4年)武田家と今川家の同盟関係は崩れ信虎は駿河に侵攻をかけます、これに応じて北条氏綱が今川家救援の為に御殿場から都留郡へ2万余の兵で侵攻します、それに対して勝沼信友と小山田氏はわずか2000の兵で山中村にて応戦しますが大敗して信友は討ち死にしました。
勝沼氏の断絶
信友の死後子息である勝沼信元が家督を継ぎます、信元は武田信玄に従って信濃侵攻などで功績を挙げますが1560年(永禄3年)越後の長尾景虎(上杉謙信)は小田原北条氏の打倒と関東管領就任の鶴岡八幡参拝の為に越後を出て厩橋城(沼田城)に入ります、此れに乗じて関東の諸氏の中で景虎に殉じる者が続出します、当時武田家は小田原北条氏とは同盟関係にありましたが信元は反発して武田家に謀反を企てます、しかし謀反の証拠となる書状がみつかり信元は信玄の命で殺害され勝沼氏は断絶と成りました、一説には武蔵国の秩父地方の豪族達も小田原北条氏の傘下でありながら景虎に殉じる構えでありその豪族衆の筆頭である藤田重利を甲斐国へ引き入れクーデターを企てようとしたとも云われています、藤田重利ら秩父衆の豪族達はこの騒動の後に小田原北条氏に帰属しています。
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