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                              甲府城



           


 甲府城写真1 甲府城写真2


  築城年代 1583年(天正11年)


 1582年(天正10年)甲斐武田氏が滅亡した後に織田信長は家臣川尻鎮吉に甲斐国と信濃国の諏訪方面を領有させます、しかし信長が本能寺の変で死去すると武田家の旧臣達が甲斐国で放棄し川尻鎮吉を討ち取ります、その後徳川家と小田原北条氏が甲斐国に進入して両者は激突します、徳川家康は小田原北条軍を打ち負かし甲斐国を領有して将兵平岩親吉を甲斐国に配置しました、観吉は家康の命により武田家の本拠地であった躑躅ヶ崎館の南2kmの一条小山に要害の築城を開始します、此れが甲府城(舞鶴城)です。



                            天正仁午の乱の甲斐国

 武田家の旧臣による一揆で織田家の勢力は甲斐国から消滅しました、此れに乗じて小田原北条氏と徳川家が甲斐、信濃に侵入し(天正仁午の乱)甲斐国内はまたも紛争状態となります、戦いは上杉景勝、真田昌幸も加わり80日間に渡り信濃、甲斐、上野で展開されています、結果この戦いは武田の旧臣を見方に付けた徳川家康が優勢となり小田原北条が家康、景勝と講和を結び終結しました、天正仁午の乱により甲斐国は徳川家の領有する所となり家康は家臣平岩親吉に命じて甲府城(舞鶴城)を築城を開始させます。



                                甲府城の築城

 平岩親吉により甲府城の築城が開始されますが1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐の後に徳川家は関東に転封し甲斐国は豊臣領となります、その後甲斐国に入府した羽柴秀勝が甲府城の築城を引継ぎますが美濃国へ転封となり交代の加藤光泰が築城に着手しました、光泰の時代に本郭、天守郭、稲荷郭、館郭の城の中心部が構築されています、しかし光泰の嫡男「貞泰」の美濃国へ転封によりまたも築城が中断し結局その後の浅井長政、幸長の親子によって甲府城が完成されました、浅井氏の築城の時代には甲府城の築城と慶長の役(朝鮮出兵)が重複した為に資金的に困難を極め領民に対する負担が増大し領内から逃亡する農民も多かったと云います。

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