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 躑躅ヶ崎館  
         
         
   
         
 躑躅ヶ崎館CG、写真1 躑躅ヶ崎館CG、写真2  
         
  築城年代 1519年(永正16年)  
         
 躑躅ヶ崎館は1519年(永正16年)に武田信玄の父親である武田信虎により築城されました、甲斐国守護職であった武田氏は躑躅ヶ崎館の築城以前は此処より東の石和を本拠地としていました、信虎の祖父武田信昌は本拠地である石和館からその西側の川田へと本拠地を変え信虎の時代には現在の甲府盆地の中心地である館を構えて府中と称しました、この館が躑躅ヶ崎館です。  

 
         
 武田氏の再興  
         
 信虎の祖父信昌が甲斐守護職に就任した時代には甲斐武田家は甲斐国の覇権を握っていたわけではありませんでした、信昌の曽祖父の武田信満は「上杉禅宗の乱」に加担した為に討伐され甲斐国は一時守護職不在と成ります、それに乗じて甲斐国で政治権力を抑えていたのが甲斐国守護代である跡部氏です、武田信重(信昌の祖父)の代に室町幕府の命で武田家は守護職に復帰しましたが実質的権力は跡部氏が握っていました、その後信昌が幼少で守護職に就任すると跡部氏による専横支配体制は更に強くなります、信昌は跡部氏打倒を決意して幼少でありながら跡部氏に対抗したと云います、1465年(寛正6年)諏訪氏の援助を受けた信昌は初狩の合戦で跡部景家を撃破して跡部氏専横に終止符をうちます。  

 
         
 武田氏の甲斐国統一  
         
 跡部氏の勢力を抑えた信昌でしたが甲斐国内では穴山氏、大井氏、今井氏、小山田氏などの国人領主が以前勢力を保ち続けていました、1492年(文明4年)信昌が家督を長男「武田信縄」に譲り隠居します、しかし信昌は家督相続を次男「油川信恵」かえると言い出し武田家は信縄と信恵の双方支持派に二分され内乱状態になります、1505年(永正2年)に信昌が死去し次いで二年後の1507年には信縄が死去します、それにより信縄の子武田信直(信虎)が信縄の後を次いで叔父である信恵と対立します、それに対して信恵は小山田氏と組んで1505年(永正5年)坊峰の合戦で信虎と対陣しますが信恵は信虎に討ち取られてしまいました、その後信虎は小山田氏と和議を結び1520年(永正17年)には大井氏とも同盟を結んでいます。  

 
         
 躑躅ヶ崎館の構築  
         
 甲斐国をほぼ手中に収めた信虎は本拠地を石和から躑躅ヶ崎館に移します、此処を府中と定めて躑躅ヶ崎館の周りに京都の都に似せて碁盤の目に道を敷いて家臣団の屋敷、町屋などを配置しました、ただしこの時に信虎が構築した躑躅ヶ崎館とその市街地は戦時を意識した戦国期の要害と城下町とは大きく異なりあくまでも府中である政治と経済の中心地でした、例として1521年(大永元年)今川勢が富士川沿いに甲府に迫ると信虎は躑躅ヶ館を退去して館の後詰の城である要害山城に籠もったと云います、この様に躑躅ヶ崎館は京都御所の様な政務を執行する目的の行政所であり防衛設備である外郭、石積、天守などは後年の徳川政権下で増設されたものです。
 また1521年の籠城戦の最中に武田晴信(後の信玄)が誕生したと云います。
 

 
         
 武田信玄の時代  
         
 甲斐国を治めた武田家ですが今度は国外の敵である信濃諏訪氏、駿河今川氏、振興勢力である小田原北条氏と対立します、その最中に信虎の嫡子晴信(信玄)は信虎が駿河の今川家に出向いたすきに父である信虎を追放して家督と守護職を強引に相続します、これには異説が幾つかありますが信虎は家臣団とのおりあいが悪く戦費による重税で領民の信虎への不満が増大していたと云います、何れにせよ信虎追放は家臣達の支持を受けて実行したものです、当主と成った晴信(信玄)は甲相駿の三国同盟(武田、北条、今川の同盟)を結び領国の安定を図りながら信濃国侵攻を本格化させ村上氏、小笠原氏と対立して此れを制圧します、信濃国を治めた(晴信)信玄は越後の長尾景虎(上杉謙信)と川中島で1553年(天文2年)、1555年(天文24年)、1557年(弘治3年)、1561年(永禄4年)、1564年(永禄7年)の5回に渡り対陣します、この川中島の合戦の結果信玄は信濃国の支配体制を磐石なものにしました。  

 
         
 武田家の滅亡と躑躅ヶ崎館の廃城  
         
 1573年(元亀3年)信玄は遠江国三方ヶ原で徳川軍と対戦してこれを撃破し三河国の防衛線である野田城を攻略しますが突然信玄が急死してしまいす、それにより三河侵攻中の武田軍は領国甲斐へ撤退し代わって武田勝頼が武田家の当主となります、1575年(天正3年)勝頼は織田信長に長篠で大敗しました、勝頼は信長の領国甲斐国への侵攻に備えて本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城に移転します、更に戦況の悪化により新府城を捨て大月岩殿城へ退去します、その途中で家臣小山田信茂の謀反により岩殿城に入れず天目山にて自害しました、その後躑躅ヶ崎館は信長の家臣川尻秀隆が入城しますが本能寺の変により信長が討ち死にすると武田家の旧臣の一揆により秀隆は殺害されます、以後徳川家の持ち城となり躑躅ヶ崎館は大々的な改築がなされましたが1590年(天正18年)に甲府城が築城されると躑躅ヶ崎館は廃城となりました。  

 
         
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