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1894年9月17日、黄海海戦で日本海軍に大敗を喫した清国北洋艦隊は一次旅順港へ退避、しかし此処も日本軍に占領され山東半島の威海衛湾の軍港へと避難します、そこで日本軍は北洋艦隊の残存艦艇を壊滅させるべく山東半島へ上陸を開始しました。 |
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山東半島への上陸 |
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1895年1月20日、日本軍の海軍陸戦部隊が山東半島東端の成角山灯台を占領、次いで第二師団を中心とした第一次揚陸部隊が成角山灯台の西方向「栄城県城」を占領しました、更に22日には第6師団が上陸し26日に第2師団と共に威海衛へと進軍を開始します、一方威海衛を守る清国軍は東西10kmの威海衛湾の南北両岸に砲台群を構築し湾入り口の劉公島と日島にも砲台を設置して守りを固めていましす、また湾入り口の北岸から南岸を劉公島と日島経由して艦艇の進入を防ぐ防材を連ねていました。 |
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それら清国側の防備に対して日本側は第6師団が二度の戦闘を経て威海衛南岸の砲台群を占領、更に第2師団が南岸砲台後方の高地を占領しました、その日本側の動きに対して清国軍は北岸砲台群及び市街地を捨て撤退、第2師団が無血で北岸砲台群を占拠するに至ります、此れにより劉公島と日島の砲台及び北洋艦隊は孤立した状態となりました。 |
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北洋艦隊からの応戦 |
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威海衛湾内には旗艦「定遠」と姉妹艦「鎮遠」の主力戦艦2隻を含む計14隻が停泊していました。 |
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(威海衛湾内に停泊する清国北洋艦隊) |
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(北洋艦隊旗艦定遠と姉妹艦鎮遠) |
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主力戦艦「定遠」、「鎮遠」には口径30cmもの巨大砲が搭載されており、その巨砲を使い日本軍に占領された砲台群に向けて艦砲射撃を開始しします、日本側は砲撃に対して野砲などの陸戦砲で反撃するも歯が立たず海軍に救援を依頼する事となりました。 |
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(定遠からの艦砲射撃) |
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日本海軍による夜間水雷攻撃 |
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(2月4日の夜間に威海衛湾内に侵入する日本海軍の水雷戦隊) |
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救援以来を受けた日本海軍は水雷戦隊による夜間水雷攻撃を決議、2月4日の夜に水雷戦隊を威海衛湾内へと侵入させます、その侵入ルートは第6師団が占領した南岸沿いで清国軍に気づかれる事無く防材を撤去して進入に成功しました。 |
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翌日5日の午前3時に進入した水雷戦隊は北洋艦隊に対して魚雷攻撃を開始します、この魚雷攻撃により巡洋艦「来遠」、スループ艦「威遠」など計3隻を撃沈、旗艦「定遠」を座礁させています。 |
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(日本海軍の水雷戦隊より魚雷攻撃を受ける定遠) |
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北洋艦隊の降伏 |
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2月9日の早朝、日本海軍の水雷戦隊は威海衛湾へ更なる侵入をかけて北洋艦隊の残存艦に水雷攻撃を行いました、それにより巡洋艦「靖遠」を撃沈しています、座礁し身動きの取れない状態にあった旗艦定遠は砲台として応戦しましたが陸上からの砲撃を受けて戦闘不能となり自沈させられました。また姉妹艦の鎮遠は大破しながら浅瀬に乗り上げなんとか沈没を免れていますが後に日本海軍へ編入されています。 |
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(自沈、着底する定遠) |
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この2度に渡る水雷攻撃により湾内には安全な場所は無いと悟った清国軍水兵が反乱を起こし清国軍に派遣されていた外人顧問も北洋艦隊司令官「丁汝昌」に降伏をうながしました、2月11日、丁提督は連合艦隊司令長官「伊藤祐亨」宛に降伏文章を残し服毒自殺をします、また定遠艦長の「劉歩蟾」も同様に自害しました、降伏後「丁汝昌」の遺体は日本軍の敬礼に見送られ本国へ送還されたと言います。 |
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