近代の軍艦史  軍事、兵器  TOPページ    
         
 黄海海戦  威海衛の戦い      
     
         
豊島沖海戦   
         
         
   
         
 1894年7月19日、日清両国間が朝鮮半島問題でもめる最中、大日本帝国は清国に対して最後通告をの旨を伝えます、「もし貴国が朝鮮王朝の独立を認めず仁川(朝鮮半島西岸)への兵力増援を続けるならば此れを脅迫ととらえる(宣戦布告)」、5日間の期限が定められたこの通告に対してなんら清国からの返答の無いまま期限が過ぎた25日、連合艦隊第一遊撃隊「吉野」、「秋津州」、「浪速」が朝鮮半島西岸の牽制を目的に仁川の南、豊島沖に停泊していました、そこへ現れたのが清国の巡洋艦「済遠」と「広乙」、この2隻は清国軍の兵員輸送護衛(仁川への輸送)の為に豊島沖を航行していたのです、正式な宣戦布告こそ出されていませんでしたが最後通告の期限が過ぎた以上、日清両国は事実上戦争状態にあり、その両国の軍艦同士が豊島沖で鉢合わせしていよいよ日清は戦闘へと突入するのでした。      
 
 

 
         
戦闘開始   
         
 連合艦隊第一遊撃隊は豊島沖で通報艦「八島」と巡洋艦「武蔵」との合流をする予定でした、しかしそこへ現れたのは清国の2隻の巡洋艦「済遠」と「広乙」、この2隻は清国軍兵員輸送船「高陞号」とその護衛「操江」の前衛の為にこの海域を通りかかったのです。   
   
(八島と武蔵をまつ秋津島、吉野、浪速)   
         
 午前7時60分、第一遊撃艦隊が2隻の清国軍艦に近づくと巡洋艦「済遠」がいきなり主砲21cm砲を発砲、それに対して遊撃艦隊の旗艦「吉野」が応戦し「済遠」の艦橋に命中弾を与えました。   
   
(第一遊撃艦隊に向けて主砲弾を発砲する清国巡洋艦済遠)   
   
 (済遠に命中弾を与える吉野)  
         
 吉野に続き秋津州、浪速も砲撃を開始、ついに戦闘が始まったのです。   
   

 
         
第一遊撃隊により追撃   
         
 砲撃戦が展開される最中「済遠」の艦長「方伯謙」は形勢不利と判断して白旗を掲げ降伏します、しかし吉野が近づき上陸艇を降ろし始めると済遠は突然逃走、それを吉野が追撃、吉野が追いつくとまた白旗を掲げ停船、それを何度も繰り返して浅瀬に逃げ込みます、喫水線の深い吉野は浅瀬に逃げ込んだ済遠の追撃を断念せざるおえなくなりました、済遠の逃走に関しては「広乙」との連携無く単独で行われたものであり要するに(自分だけ逃げちゃた)と言う事です、また済遠の艦長「方伯謙」は黄海海戦でも同様に形勢不利な戦いの最中に敵前逃亡をしています、方伯謙のこの見事な逃走劇は賞賛する声もある程です。   
   
 (済遠を追撃する吉野)  
         
 一方「秋津州」は「広乙」を追撃、広乙を海岸方面へと追い込み座礁させます、広乙の艦長は船員を全員降ろした後に広乙を爆沈させました。   
   
(広乙を海岸へと追い込む秋津州)   

 
         
 高陞号事件  
         
  この追撃戦が行われている中、清国海軍の輸送船「高陞号」と護衛の「操江」が戦闘海域に到着します、秋津州が護衛の操江を停船させ拿捕、続いて浪速が高陞号を停船させます。高陞号は英国商船旗を掲げていました、船長は英国人「トーマス・ライダー・ゴールズワージー」、他に英国人船員が数名乗船していました、しかし高陞号には清国の兵士1100名が乗船していて明らかに仁川への増援部隊であった為に浪速の艦長「東郷平八郎」(後の連合艦隊司令長官)は高陞号に降伏、随行を要求します、高陞号側は此れを拒否、どうやら高陞号の英国人船長は清国兵士の脅迫を受けていた様です、この事態を察知した東郷は高陞号と押し問答を繰り返しましたが2時間後「撃沈いたします」の信号旗を掲げ魚雷発射、高陞号を撃沈するにいたりました。  
 
(高陞号に魚雷攻撃をかける浪速)   
         
 撃沈後、東郷は上陸艇を降ろし高陞号の船長、士官を救助します、海戦後、高陞号はイギリス船籍であった事からイギリス国内で日本に対する反感が高まりました、しかし東郷の行為は国際法上合法と認められてます、もっともこの当時イギリスはアジアの派遣に関して日本と同盟関係を結びたがっていた為に日本に対する気遣いもあったのでしょう。
 この海戦から7日後の1894年8月1日に日本から清国に対して宣戦布告状が送りつけられました。 
 

 
         
 近代の軍艦史  軍事、兵器  TOPページ    
         
 黄海海戦  威海衛の戦い