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装甲巡洋艦「吾妻」は対ロシア艦隊の六六艦隊計画により日本がフランス「ロワール社」へ発注した艦です。当時フランスはロシアと同盟関係を結んでいましたが日本は良好な外交関係を奥州諸国と保つ為にイギリスばかりの発注では無くフランス、ドイツにも軍艦の建造を依頼していました。吾妻は規模、主砲など他の六六艦隊巡洋艦とだいたい同じでスタイル的には同様な理由でドイツに発注した装甲巡洋艦「八雲」と類いしています。 | ||||
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装甲巡洋艦吾妻の規模、装甲、機関 | ||||
吾妻型は一艦のみの建造で姉妹艦は存在しません。基準排水量は9330tで全長136m、最大幅18mと他の六六艦隊装甲巡洋艦と比較して幾らか細長い船体でした、これは当時のフランスでは巡洋艦の船体を細長くするのが常であったそうです、外見的にはドイツに発注した「八雲」と似ていますが吾妻は最後部の煙突が他の煙突より離れている事で見分けがつきます。 | ||||
装甲は弦側水線部で178mm、此れは他の六六艦隊計画5隻の巡洋艦と同じで甲板部においては最大102mmと装甲巡洋艦出雲と並び他の巡洋艦より厚めに施されています。 | ||||
機関はベルヴィール式ボイラー24基の三段膨張式四気筒レシプロ機関2基、スクリュー2基推進で最大出力17000hp最大速力20ノットを発揮、同じベルヴィール式ボイラーを採用した装甲巡洋艦「八雲型」、「出雲型」を出力で上回っています(速力は劣る)。また甲板上の太い三本の煙突は二重構造で吸気、排気が同時に可能でした、その為、通常甲板上のあちらこちらからのびる通風口が少なく、甲板上が被弾した際の熱風が艦内に入り込まない為の工夫であり此れもフランス独自のものです。 | ||||
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45口径20.3cm砲 | ||||
(艦首45口径20.3cm連装砲塔) | (艦尾45口径20.3cm連装砲塔) | |||
主砲である45口径20.3cm砲はイギリス「アームストロング社」製で六六艦隊装甲巡洋艦の統一主砲です、この主砲を連装砲塔に収め艦の中央線上の艦首、艦尾に一基づつ配備しています(合計4門)、この主砲配置はこの頃の戦艦、巡洋艦で一般的とされていました。当時装甲巡洋艦の主砲は20cmが標準となりつつあり1922年のワシントン軍縮条約においては巡洋艦の定義が口径20cm砲をまでを搭載した艦と定められ、それお超える砲を搭載した軍艦は戦艦、もしくは巡洋戦艦に分類されました。 | ||||
(左舷側に向けられて4門の20.3cm砲) | ||||
この主砲配置により艦首、艦尾方向へ2門づつの主砲が向けられ弦側には4門の主砲が向けられます。また円筒砲塔(多少円錐)に砲身を収める事で砲の旋回性が向上し左右共に150°までの旋回が可能となります。 | ||||
これら4門のアームストロング社製45口径20.3cm砲は最大射程18000m、毎分2発もの発砲が可能で非常に信頼度の高いものでした。 | ||||
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副砲 | ||||
(左舷側の副砲) | ||||
副砲は40口径15.2cm砲が12門、40口径8cm砲が12門と補助火力の47mm砲が12門で砲数的には八雲と同じで配置場所が少し異なります。15.2cm砲は片弦側で甲板上に2門、船体側面に2門、艦首と艦尾甲板側面に1門づつで6門、両弦側合わせて12門の配置です。 | ||||
(左舷艦首側船体及び甲板側面に配置された15.2cm砲) | ||||
8cm砲は片弦側で中央甲板上に2門、艦首、艦尾甲板上に1門づつ、艦首、艦尾の船体側面に1門づつで6門、両弦側合計12門の配置です。 | ||||
(左舷中央甲板上に配置された15.2cm砲と8cm砲、手前から奥の艦首方向へ向けて15.2cm砲、8cm砲、15.2cm砲、8cm砲の準に交互に2門づつ配置されています。) | ||||
この15.2cm砲と8cm砲も他の巡洋艦と統一されたものです、15.2cm砲においては最大射程9100mで1分間に最大7発の発砲が可能であったそうです。 | ||||
(艦首甲板上の8cm砲) | (左舷艦首船体側面に配置された8cm砲) | |||
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装甲巡洋艦吾妻の艦歴 | ||||
1900年10月装甲巡洋艦「吾妻」は横須賀港に到着します。就役後、装甲巡洋艦隊「第二艦隊、第一戦隊」に所属し日露戦争開戦後の1904年8月14日「蔚山沖海戦」で装甲巡洋艦「出雲」を旗艦とする「上村艦隊」と共にロシア、ウラジオ装甲巡洋艦隊を砲撃し装甲巡洋艦「リューリク」を撃沈、同じく装甲巡洋艦「ロシア」、「グロモボーイ」を大破させています。日本艦海戦ではウラジオストックに逃走を図ろうとするバルチック艦隊へ第二戦隊は単独で突入しバルチック艦隊を混乱させています、この時吾妻は旗艦出雲の続く二番手を随行していました。 日露戦争後に吾妻は練習艦と成りますが第一次大戦勃発後に連合国の通商船団護衛の為にスエズに派遣されています。一次対戦が終結し太平洋戦争の最中に吾妻は老朽艦の為解体されています。 |
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装甲巡洋艦吾妻 | ||||
基準排水量 | 9330t | 兵装 | ||
全長 | 136m | 45口径20.3cm連装砲塔 | 2基(4門) | |
最大幅 | 18m | 40口径15.2cm砲 | 12門 | |
40口径8gm砲 | 12門 | |||
機関 | ベルヴィール式ボイラー24基、三段膨張式四気筒レシプロ機関2基、2軸推進 | 47mm単装砲 | 12門 | |
最大速力 | 20ノット | |||
最大出力 | 17000hp | 1898年2月起工 | ||
1899年6月進水 | ||||
装甲厚 | 1900年就役 | |||
弦側水線部 | 178mm | 1944年2月除籍後解体 | ||
甲板部 | 最大102mm | |||
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