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 近代の軍艦史        
         
日本海海戦   
  (バルチック艦隊現る)     
         
   
         
 1904年(明治37年)、日露戦争の最中の黄海海戦においてロシア海軍旅順艦隊は大日本帝国連合艦隊に敗北します、旅順艦隊は壊滅こそ避けられたものの(帝国陸軍による旅順要塞陥落後に砲撃により全滅)ロシア海軍は新たに太平洋艦隊の編制を余儀なくされます、それが所謂バルチック艦隊(後に太平洋第似2艦隊と呼ばれる)で戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻、高速巡洋艦8隻を中核とする計38隻の大艦隊でした、そのバルチック艦隊が1904年(明治37年)10月16日にバルト海沿岸の港リバウ軍港を出港、ウラジオストック港へと向かいます。   

 
         
間違いだらけの艦隊編制と航海   
         
 大西洋方面で最強と言えるバルチック艦隊ですが当初よりその編制は誤算だらけでした、まずバルチック艦隊の極東への移動が遅すぎた事、戦争勃発以前もしくはロシアの太平洋艦隊であるウラジオストック艦隊及び旅順艦隊が健全であるうちに移動させておくべきでした、旅順艦隊、ウラジオ艦隊と合流した上で戦闘に赴くべきで単独では十分な戦力と言い難い部分もあります、確かに主力となる戦艦の数は8隻と連合艦隊の2倍ですが巡洋艦の数では連合艦隊がバルチック艦隊を上回っています。次にバルチック艦隊に乗船していた士官、船員ですか経験の浅い新兵が大半でした、経験豊かな士官などは既に極東方面の戦闘に送られ残った新兵を艦隊に乗船させたのです、更に途中通過するスエズ運河は当時1万トン以上の艦船は通れず主力戦艦の内5隻と装甲巡洋艦の内2隻は支隊から分かれ遠く喜望峰へ向かいアフリカ大陸をグルリとまわる航路をとります、これにより石炭輸送船をともない主力艦の艦内至る所に石炭が満載され乗船させる兵員及び弾薬、物資を削減せざるえない状態と成っていたのです、この事が後の海戦での敗因の一つとなります。 
 さてリバウ軍港を出港したバルチック艦隊ですが出港から6日後の10月21日に北海で早々に問題を引き起こします、イギリスの漁船を日本の水雷艇と誤認し撃沈してしまったのです(ドッガーバンク事件)。この事件でイギリスの世論は一気に反ロシア、親日へと傾きます、此れによりで航海中のバルチック艦隊はイギリスの植民地の港へ入港を拒否されてしまいます、そもそも50t~150tクラスの小さな水雷艇が日本からわざわざ北海まで来るはずが無く冷静に考えれば判る事で艦隊内部は相当の緊迫した状態であったのでしょう、当時ロシア海軍は過剰に日本海軍を脅威と思っていたようです。
 
   
 (バウチック艦隊の航路)  
   
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日本海海戦に参戦した連合艦隊の主な艦船   
         
 (戦艦三笠  (戦艦朝日  
 
 進水1900年 
 総排水量15、140t
 全長131,7m
 最大速力18ノット
 兵装 40口径30、5cm砲4門
     40口径15、2cm砲14門
     40口径7,6cm砲20門
     47mm砲16門
     45cm魚雷発射管4門
 進水1899年 
 総排水量15、200t
 全長129,62m
 最大速力18ノット
 兵装40口径30,5cm砲4門
    40口径15,2cm砲14門
    40口径7,6cm砲20門
    47mm砲12門
    45cm魚雷発射管4門
 
 第一艦隊所属、連合艦隊の旗艦で当時、最大にして最新装備の戦艦でした。  第一艦隊所属、敷島型戦艦の2番艦、太平洋戦争中の1942年まで工作艦として活躍しています。  
             
 (戦艦敷島  (戦艦富士  
 
 進水1898年
 総排水量14、850t
 全長133,5m
 最大速力18ノット
 兵装40口径30,5cm砲4門
    40口径15,2cm砲14門
    40口径7,6cm砲20門
    47mm砲12門
    45cm魚雷発射管1門
    45cm水中魚雷発射管4門
 進水1896年
 総排水量12、533t
 全長114m
 最大速力18ノット
 兵装40口径30,5cm砲4門
    40口径15,2cm砲10門
    47mm砲24門
    45cm魚雷発射管1門
    45cm水中魚雷発射管4門
 
  第一艦隊に所属の1等戦艦、同型艦として初瀬、朝日がありましたが1904年(明治37年)5月15日戦艦八島共に戦艦初瀬がロシア海軍の設置した機雷に触れ沈没。   第一艦隊所属、同型艦八島と共に当初日清戦争に向けて建造されましたが完成前に戦争が終結します、当時明治天皇が宮中予算を削減しイギリスに建造を発注したとされ30cm砲を4門備えた10、000tを超える日本海軍初の本格的な戦艦でした。  
     
 (1等巡洋艦春日  (1等巡洋艦日進  
   
 進水1902年
 総排水量7,700t
 全長105m
 最大速力20ノット
 兵装40口径25,4cm砲1門
    45口径20cm砲2門
    40口径15,2cm砲14門
    40口径7,6cm砲8門
    45cm水中魚雷発射管4門
 進水1903年
 総排水量7,700t
 全長105m
 最大速力20ノット
 兵装45口径20cm砲4門
    40口径15,2cm砲14門
    40口径7,6cm砲8門
    45cm水中魚雷発射管4門
 
 アルゼンチン海軍がイタリアに発注した艦でした後に不要とされそれを日本海軍が同盟国イギリスの紹介で買い付けたものです、第一艦隊所属。  春日と同様アルゼンチン海軍がイタリアに発注したものを日本海軍が購入した艦(春日と同型艦)、当初春日と共に第3艦隊に所属していましたが戦艦初瀬、八島の沈没後、春日、日進は第1艦隊に編入されます。  
     
 (装甲巡洋艦磐手  (装甲巡洋艦出雲  
 
 進水1900年
 総排水量9、750t
 全長132、28m
 最大速力21ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15,2cm砲14門
    12ポンド砲12門
    2,5ポンド砲8門
    45,7cm水中魚雷発射管4門
 進水1898年
 総排水量9,750t
 全長12,192m
 最大速力21ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15,2cm砲14門
    12ポンド砲12門
    2,5ポンド砲8門
    45,7cm水中魚雷発射管4門
 
 第2艦隊所属、日露戦争当時同型艦の出雲と共に最新鋭の装甲巡洋艦でした。  第2艦隊所属、装甲巡洋艦磐手と同型艦で第2艦隊の旗艦。  
     
 (装甲巡洋艦吾妻  (装甲巡洋艦八雲  
 
 進水1899年
 総排水量9、326t
 全長135,9m
 最大速力20ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15cm砲12門
    8cm砲12門
    47mm砲12門
    45、7cm魚雷発射管1門
    45、7cm水中魚雷発射管4門
 進水1899年
 総排水量9,695t
 全長124,7m
 最大速力20,5ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15cm砲12門
    8cm砲12門
    47mm砲12門
    45、7cm魚雷発射管1門
    45、7cm水中魚雷発射管4門
 
 第2艦隊所属、日本海軍が日露戦争へ向けて海外に発注した艦船は日英同盟の関係上イギリスで大半建造されました。装甲巡洋艦吾妻はフランスで建造した艦です、フランスは敵国ロシアと同盟を結んでいましたが外交上良好な関係を保つため発注したとされています。  第2艦隊所属、装甲巡洋艦吾妻と同様な理由でドイツに発注した艦。  
     
 (装甲巡洋艦常磐 装甲巡洋艦浅間)   
 
 進水1898年
 総排水量9,700t
 全長134,72m
 最大速力21,5ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15、2cm砲1門
    45、7cm魚雷発射管1門
    45、7cm水中魚雷発射管4門
 進水1898年
 総排水量9,700t
 全長134,72m
 最大速力21,5ノット
 兵装20,3cm砲4門
    15、2cm砲14門
    8cm砲12門
    47mm砲8門
    45、7cm魚雷発射管1門
    45、7cm水中魚雷発射管4門
 
 第2艦隊所属、浅間型装甲巡洋艦の2番艦。  第2艦隊所属、日露戦争以前に1900年北清事変にも参戦。  
     
 (防護巡洋艦松島   (防護巡洋艦橋立  
 
 進水1890年
 総排水量4、217t
 全長89.8m
 最大速力16ノット
 兵装32cm砲1門
    12cm砲12門
    47mm砲6門
    35,6cm魚雷発射管4門
 進水1891年
 総排水量4、217t
 全長89.8m
 最大速力16ノット
 兵装32cm砲1門
    12cm砲11門
    47mm砲6門
    35,6cm魚雷発射管4門
 
 第3艦隊所属、日本海軍が日清戦争へ向けてフランスへ建造を発注した防護巡洋艦、最大の特徴は艦尾に38口径32cmの巨大砲が1門装備されています、また、同型艦として橋立、厳島の2隻が建造されています。  第3艦隊所属、防護巡洋艦松島をベースに国内で建造された艦、松島と異なる点は艦尾に装備された32cmの巨大砲を艦首に配備した事、しかしこの32cm砲は船体の大きさと比較して巨大過ぎた為に艦の安定性を悪くしたと言います、これら防護巡洋艦松島、橋立、厳島を総じて三景艦と称していました。  
     
 (2等戦艦扶桑  (2等戦艦鎮遠  
 
 進水1877年
 総排水量3,717t
 全長68,5m
 最大速力13ノット
 兵装24cm砲4門
    12cm砲4門
    47mm砲11門
    35,6cm魚雷発射管2門
 進水1881年
 総排水量7,720t
 全長91m
 最大速力14,5ノット
 兵装20口径30,5cm砲4門
    40口径15,2cm砲4門
    6ポンド砲2門
    3ポンド砲8門
    35,6cm水中魚雷発射管3門
 
 第3艦隊所属、明治初期、コルベット艦の金剛、比叡と共に海軍力強化の為にイギリスに発注した艦です、日本海軍初の鉄骨、鉄張の鉄造艦で日清戦争、日露戦争共に参戦していましたが日清戦争の時点で既に旧式艦でした、しかし24cm砲を4門装備していた事から2等戦艦に分類されていました。    日清戦争時、同型艦の定遠と共に清国北洋艦隊の主力艦でした、日清戦争時の黄海海戦で連合艦隊は北洋艦隊に勝利し鎮遠を戦利艦として日本海軍に編入したのです、当時日本海軍には5、000tを超える大型艦は無く日清戦争時の海戦において最大の強敵でした、しかし日露戦争時には既に旧式艦と成っていました、日本海海戦では第3艦隊に所属。  
( 防護巡洋艦笠置  (防護巡洋艦和泉  
 
 進水1897年
 基準排水量4862t
 全長114.15m
 最大速力22.5ノット
 兵装45口径20.3cm砲2門
    40口径12cm砲10門
    40口径76.2cm砲12門
    35.5cm水上魚雷発射管5門
 進水1883年
 基準排水量2950t
 全長82.2m
 最大速力18ノット
 兵装30口径25、4cm砲2門(就役時)
    40口径15,2cm砲6門(就役時)
    35.6cm水上魚雷発射管3門(就役時)
 
 (防護巡洋艦須磨    
   
 進水1895年
 基準排水量2657t
 全長93.5m
 最大速力20ノット
 兵装40口径15.2cm砲2門
    40口径12cm砲6門
    4.7cm砲12門
    45.7m水上魚雷発射管2門
   

 
         
ロシア帝国バルチック艦隊の主力艦   
         
 ボロジノ級戦艦   戦艦オスリャービャ   
 
     
 戦艦シソイヴェリキー  戦艦ナヴァリン  
 
     
 戦艦インペラートルニコライ1世  装甲巡洋艦アドミラルナヒモフ  
 

 
         
バルチック艦隊と仮装巡洋艦信濃丸の遭遇   
         
 1905年5月26日、日本海軍は大本営からの電報を受信、その内容は「ロジェストウエンスキー提督(バルチック艦隊総指揮官)配下の巡洋艦2隻と商船(輸送船)10隻が上海に入港し本隊は揚子江河口付近に停泊中」との事、ロシア艦隊は食料、石炭などの補給していたのです。これ以前に日本海軍はバルチック艦隊の航路を太平洋に回り宗谷海峡または津軽海峡を通りウラジオストック港へ向かうコース、対馬海峡から日本海へ入りウラジオストックへ向かうコースの3コースを検討中でしたが5月25日の時点で敵艦隊は対馬海峡を抜けると確信していました、日本海軍は25日の電報により数日中にはバルチック艦隊が対馬海峡を通ると判断したのです。日本艦隊は巡洋艦、装甲艦、駆逐艦、水雷艇、仮装巡洋艦など多数の艦艇を対馬海峡に監視の為配置、連合艦隊司令長官東郷平八郎大将の率いる連合艦隊主力艦隊は旗艦三笠をはじめ朝鮮半島の鎮海湾に待機していました、5月27日午前3時30分、仮装巡洋艦信濃丸は薄っすらたちこめる霧の中に消えては光る閃光を発見、接近すると数隻の艦船を確認、バルチック艦隊です、午前4時50分信濃丸は「ロシア艦隊が、対馬海峡に近い宇久島の列線上を航行中、艦首を向けている方向から見て対馬海峡へ向かう模様」と打電しました、この電文がロシア艦隊発見の最初の通報となります。  

 
         
       
         
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