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装甲巡洋艦八雲は浅間型に次いで日本海軍が入手した装甲巡洋艦です、発注はドイツのヴルカン造船所で当時ドイツは仮想敵国ロシアと同盟関係にありましたが国際関係を考慮した日本はあえてドイツにこの艦の建造を依頼したのです(ロシア、ドイツ、フランスの同盟は然程強固な関係ではなかった)。実際発注は前級の浅間より先でしたが浅間は建造中の艦であったものを購入した為に八雲が後の完成となります。また同型の艦はありません、この艦1隻のみです。 | ||||
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八雲の規模。装甲、機関 | ||||
戦艦八雲の排水量は9700t、全長は125m、最大幅19.6mと他の六六艦隊計画における装甲巡洋艦と略同じ規模です。 | ||||
装甲は弦側水線部で178mmと他の六六艦隊計画の装甲巡洋艦隻と同じで発注に際して日本側で企画統一したのでしょう。甲板装甲は異なり八雲においては51mmと他の艦より薄い装甲と成っています。 | ||||
機関は三段膨張式四気筒レシプロ機関2基のスクリュー2軸推進で15500hp、最大速力20.5ノットと前級浅間よりいささか劣りますが当時の装甲巡洋艦の世界基準では此れで十分。 | ||||
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主砲45口径20.3cm砲 | ||||
(艦首側の20.3cm連装砲塔) | (艦尾側の20.3cm連装砲塔) | |||
主砲は他の装甲巡洋艦と同じ45口径20.3cm砲です、日本海軍は砲弾の流用などを考慮して艦載砲を統一企画としていました、これら20.3cm砲を連装砲塔に収め艦の中心線上艦首、艦尾に2基づつ計4門配置しています、この主砲配置は当時巡洋艦、戦艦において世界的に基準となりつつある配置でした。 | ||||
この主砲配置により艦首、艦尾に2門づつ、弦側に4門の砲口が向けられます。 | ||||
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副砲 | ||||
(左舷側に配置された40口径15,2cm砲6門、甲板上の4門中中央の2門が15.2cm砲、他の両側2門は8cm砲) | ||||
副砲も他艦と同じ40口径15,2cm砲で最大射程距離9100、毎分最大7発もの発砲が可能であったそうです、この15.2cm砲が片弦側の船体側面に砲郭に収め2門、甲板上に2門、艦首、艦尾の甲板側面に1門づつの両弦側で合計12門が配置されています。艦首、艦尾の甲板側面に配置された砲は前後に2門づつ砲口が向けられます。 | ||||
(艦尾甲板上に配置された40口径8cm砲) | (艦首船体側面に配置された40口径8cm砲) | |||
予備火力である40口径8cm砲は片弦側甲板上側面に2門づつ、艦首、艦尾の甲板上に1門づつ、艦首、艦尾船体側面に1門づつの両弦側で合計12門が配置されています。 | ||||
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八雲の艦歴 | ||||
1900年八雲が就役、1904年日露戦争が開戦すると八雲は他の装甲巡洋艦と共に編制された第二艦隊、第二戦隊に所属します、日本海海戦では主力艦隊である第一艦隊、第一戦隊の航続を第二戦隊が随行しています、海戦直後に両戦隊とも一直線に並びロシアバルチック艦隊へと突進しバルチック艦隊直前で進路変更、ターンを繰り返しながら砲撃をかけて敵主力艦を次々大破、撃沈しています。 装甲巡洋艦八雲は第一次大戦後に一等海防艦に種別されますが太平洋戦争の最中1942年7月にまた一等巡洋艦に復帰し空母「飛鷹」などの護衛に着きます、大戦後は満州や台湾などの復員兵の輸送を行い1946年6月任務終了により解体されています。 |
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装甲巡洋艦八雲 | ||||
基準排水量 | 9695t | 兵装 | ||
全長 | 124.7m | 45口径20.3cm連装砲塔 | 2基(4門) | |
最大幅 | 19.6m | 40口径15.2cm砲 | 12門 | |
40口径8cm砲 | 12門 | |||
機関 | 三段膨張式四気筒レシプロ機関2基、2軸推進 | 47mm砲 | 12門 | |
最大速力 | 20.5ノット | 45,7cm水上魚雷発射管 | 1基 | |
最大出力 | 15500hp | 45.7cm水中魚雷発射管 | 4基 | |
装甲厚 | 1898年9月起工 | |||
弦側水線部 | 178mm | 1899年7月進水 | ||
甲板部 | 51mm | 1900年就役 | ||
1947年4月解体 | ||||
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