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大日本帝国は日清戦争に勝利しますが戦争終結後に今度はロシアとの緊張が高まります、その為1896年度と1907年度の海軍整備計画において就役間近の次期主力戦艦「富士型」12200tを上回る戦艦4隻の建造に踏み切りイギリスへ発注します、それが敷島型である戦艦「敷島、朝日、初瀬、三笠」の4隻です。 | ||||
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戦艦敷島の規模、装甲、機関 | ||||
1番艦敷島は基準排水量が14850t、全長133.5mと前級富士型を上回る規模です。2番艦初瀬は全長134m、3番艦朝日は129.6m、4番艦三笠は131.67mと同型艦でありながらそれぞれ異なる大きさです、また煙突も敷島、初瀬が3本、朝日、三笠が2本と異なります。 | ||||
装甲に関しては弦側水線部229mm、甲板102mm、砲塔部254mmと富士型よりかなり薄く成っていますが(富士型水線部457mm)、富士型で採用された軟鉄、鋼鉄を張り合わせた2重構造では無く金属の硬質製と柔軟性を兼ね備えたハーヴェイ、ニッケル鋼を装甲板に使う事により厚さを半分におさえても敷島の防御力は富士型を上回っていました、また4番艦三笠においては更に柔軟かつ強固なクルップ、セメントクロム、ニッケル鋼採用により他の3隻より防御力が上でした。 | ||||
戦艦敷島の機関は石炭専用焼ボイラーの3段膨張式3気筒レシプロ機関を搭載により最大出力14500shp、最大速力18ノットを発揮します、富士型より多少速力は劣りますが当時の主力戦艦としては基準レベルです、またボイラーの位置が敷島、初瀬と朝日、三笠で異なる為に煙突も3本、2本と異なるそうです。 | ||||
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戦艦敷島の主砲 | ||||
(艦首40口径30.5cm連装砲塔) | (艦尾40口径30.5cm連装砲塔) | |||
敷島の主砲は富士型と同じアームストロング社の40口径30.5cm砲を連装砲塔に収め艦中央線上の艦首、艦尾に1基(2門)づつ配置しています、砲もその配置も富士型と同じですが異なるのは砲塔下のバーベットに揚弾筒(砲弾用のエレベータ)を取り込んだ事です、それにより富士型まで定着していた発砲後に砲塔を回転させ揚弾筒の位置まで戻し砲弾を砲塔内部へ入れる作業が省かれ、敷島型以降は発砲と同じ位置で砲弾が詰められる様になります、その為富士型で5分もかかった発射間隔が毎分1発まで短縮、単純計算で攻撃力が5倍に向上しています、これは画期的です、しかし仮想敵国ロシア海軍の戦艦も同様な方式を採用していたので敷島の攻撃力はロシア戦艦と互角と言えるでしょう。 | ||||
(弦側に向けられた最大4門の30.5cm主砲) | ||||
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敷島の副砲 | ||||
(片弦側側面に配置された40口径15,2cm砲7門、間に配置されているのが76.2mm砲) | ||||
副砲は40口径15.2cm砲で両弦側の船体側面に4門、甲板側面に3門づつの計14門砲郭化され配備されています、富士型より4門増やされ同型の4隻とも同じ数です。 | ||||
(砲郭に納められた15.2cm砲) | ||||
更に敷島には駆逐艦の様な小型艦艇を標的とした40口径76.2mm砲を側面及び甲板上に計20門も装備されています、この76.2mm砲は至近距離での大型艦甲板構造物攻撃にも約にたっていました。発射速度も毎分15発と砲弾装填の非常に早い速射砲でした。 | ||||
(40口径76.2mm砲) | ||||
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敷島の艦歴 | ||||
1900年1月敷島が就役、その2年後には4番艦の三笠も就役し日露海戦における主力艦が略出揃います、そして1904年2月8日日露戦争勃発、帝國海軍の主力艦隊は敷島を含む三笠、初瀬、朝日、前級の富士、八島で編制される第一艦隊、第一戦隊の6隻です、海戦後に第一戦隊は旅順口攻撃、旅順港封鎖作戦を実行、旅順の湾内に潜むロシアの艦艇を封じ込めます(湾入り口を塞いだのは駆逐艦)、その終盤戦において2番艦初瀬、富士型2番艦の八島が機雷に触れ沈没、日本側は主力戦艦2隻を同時に失います。 1904年8月旅順港内に篭るロシア艦隊に対して日本海軍戦重砲隊が高地より砲撃し多数の砲弾を着弾させています、それによりロシア旅順艦隊の戦艦6隻、巡洋艦4隻、駆逐艦8隻は旅順港からウラジオストックへと逃走します、敷島及び第一艦隊はそれを追撃し黄海にて砲撃、戦艦6隻を大破、中破せています(その後旅順艦隊は遅参してドイツ領、フランス領に逃げ込む)。 1905年5月27日の日本海海戦で敷島は旗艦三笠に次ぐ艦隊2番手に位置して同第一艦隊、第一戦隊共にバルチック艦隊主力艦に集中砲火を浴びせ多大な戦果をあげています。 1921年敷島は一等海防艦に分類されます、翌年のワシントン会議において敷島型3隻は軍縮対象になり戦艦敷島は兵装、装甲が外され特務練習艦となり1925年には佐世保に係留、太平洋戦争後の1947年に解体されています。 |
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戦艦敷島 | ||||
基準排水量 | 14850t | 兵装 | ||
全長 | 133.5m | 40口径30.5cm連装砲塔 | 2基(4門) | |
最大幅 | 23m | 40口径15.2cm砲 | 14門 | |
40口径7.62mm砲 | 20門 | |||
機関 | 石炭専用焼ボイラー3段膨張式3気筒レシプロ機関 | 45cm水中魚雷発射管 | 4基 | |
最大速力 | 18ノット | 45cm水上魚雷発射管 | 1基 | |
最大出力 | 14500shp | |||
1897年3月起工 | ||||
装甲厚 | 1898年1月進水 | |||
弦側水線部 | 229mm | 1900年11月就役 | ||
甲板部 | 102mm | 1947年解体 | ||
砲塔部 | 254mm | |||
バーベット | 356mm | |||
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