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1875年明治政府は金剛型コルベット艦(2200t)2隻と扶桑型甲鉄艦(3700t)1隻をイギリスに発注します、帝國海軍創設当時、主な主力艦は「甲鉄」、「龍驤」、「日進」の3隻のみでした、1874年(明治7年)の佐賀の乱、台湾出兵において軍艦の優位性を痛感した日本は将来主力艦と成りえる3隻の装甲艦の購入を決定したのです。 | ||||
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扶桑、金剛、比叡の購入 | ||||
(就役当時の扶桑) | (金剛型) | |||
1978年3隻は共に竣工されます、コルベット級巡洋艦である金剛、比叡(金剛型)の2隻は鉄骨の木皮艦で、その両弦側に137mmの装甲が施されています、基準排水量2250t、全長は約70mあり1基1軸のレシプロ式蒸気機関を搭載した3本マストのバーク式汽帆船です。 甲鉄艦の扶桑は船体の全てが鉄製である日本海軍初の鉄造艦で全長68m、基準排水量3700tと当時の日本海軍の所有する軍艦の中では最大規模でした。 |
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(側面から見た扶桑) | ||||
扶桑の装甲は弦側で231mm、砲郭部で203mmあります、機関は拡張式2気筒のレシプロ蒸気機関により3500hp、13ノットを発揮、更に就役当時には3本マストによる帆走も可能でしたが後に機関の性能向上にともない此れら帆走マストは撤去され機関走行のみとなります。 | ||||
(上部から見た扶桑) | ||||
扶桑の設計はイギリスの装甲艦「オーディシアス」を元にそれを縮小したものです。就役当時にこの艦は1等戦艦に分類されていましたが同じ頃、各国海軍は既に7000t級もの巨大軍艦を主力艦としていた為に扶桑を戦艦と呼ぶのは多少無理があったようです(日露戦争時には2等戦艦に部類される)。 | ||||
(後方から見た扶桑) | ||||
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扶桑の砲配置 | ||||
(主砲20口径24cm砲) | ||||
扶桑に装備されていた砲は就役から日露戦争前にかけて幾度も変更されています、就役当時にはクリップ20口径24cm砲4門、クリップ25口径17cm砲2門、47mm砲6門でしたが最終的にクリップ20口径24cm砲4門、アームストロング40口径15,2cm砲2門、アームストロング40口径12cm砲4門、オチキス47mm砲10門、となります。 主砲の20口径24cm砲は除籍するまで一環して搭載されていました、この24cm砲は両弦側の船体側面に2門づつ計4門が配備されています、短身砲ですが口径24cmと巨大な砲で強力な破壊力を有していましたが側面2門づつの配置の為、砲身を左右70度しか向けられず前後射撃はできませんでした、しかし日清戦争時の海戦で主力艦の松島型3隻に搭載されていた38口径32cm砲があまり約にたたづ、この扶桑に搭載されていた20口径24cm砲が頼みの一撃であった様です(実際はあまり戦果をあげていません)。 |
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(艦首側の40口径15.2cm砲) | (艦尾側の40口径15.2cm砲) | |||
副砲の40口径15.2cm砲は日露戦争前の1900年に搭載されたもので砲郭に収められ艦首、艦尾に1門づつ配備されています、実際日露の海上戦ではこの15.2cm砲が主砲の役を果たしていた様です。 | ||||
(40口径12cm砲) | ||||
1886年クリップ25口径17cm砲と交換で40口径12cm砲が4門搭載されています、15.2cm砲同様に砲郭に納められ甲板上左右2門づつ配備され側面射撃以外に前側の砲は前方射撃、後方の砲は側面射撃が可能です。此れら主砲、副砲の配置により艦首及び艦尾には15.2cm砲1門、12cm砲が2門づつ向けられ弦側には24cm砲2門、15.2cm砲2門、12cm砲2門が向けられる事になります。 | ||||
((弦側に向けられた主砲と副砲) | ||||
オチキス43口径47mm機砲は47mm単装砲と交換で1886年から搭載されています、当初11門搭載され1894年には14門と変更がなされ最終的に1900年に10門で収まりました。 | ||||
(オチキス47mm機砲) | ||||
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黄海海戦での扶桑 | ||||
1894年日清戦争が勃発する頃には扶桑は既に旧式艦でありました、速力においては他の日本海軍の軍艦に及ばず1894年9月の黄海海戦では「松島」率いる連合艦隊の本隊の最後尾を随行するかたちを取っています。その黄海海戦で扶桑と前方を進む比叡は共に艦隊より離れてしまい清国北洋艦隊より集中砲火を浴びせられました、扶桑はなんとか味方艦隊に追いつきましたが比叡は追いつけず北洋艦隊の艦と艦の間をすり抜けて窮地を脱します、しかし被弾がひどくそのまま戦線離脱、艦隊に追いついた扶桑は前線に復帰し連合艦隊側の十字砲火などに加わっています。 日清戦争が終結し日露戦争において扶桑は旅順攻撃、対馬沖海戦に参戦、老朽艦ながら以前現役ぶりを見せていました、しかし1908年に引退、1910年には横浜で解体処分されています。 |
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甲鉄艦扶桑1900年 | ||||
基準排水量 | 3717t | 兵装 | ||
全長 | 68.5m | 20口径24cm砲 | 4門 | |
最大幅 | 14.6m | 40口径15,2cm砲 | 2門 | |
40口径12cm砲 | 4門 | |||
機関 | 3気筒3段膨張式レシプロ機関2基2軸 | 47mm機砲 | 10門 | |
最大速力 | 13ノット | 25mm4連装機砲 | 4基 | |
最大出力 | 3500hp | 11mm5連装機砲 | 4基 | |
7、62mm機銃 | 7基 | |||
装甲厚 | 45.7cn水上魚雷発射管 | 2基 | ||
弦側 | 231mm | |||
15.2cm砲郭装甲 | 203mm | |||
1875年9月起工 | ||||
1877年4月進水 | ||||
1878年1月就役 | ||||
1908年4月除籍 | ||||
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