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戦艦富士   
         
         
   
         
 日清戦争の前年1893年清国北洋艦隊主力艦「定遠」、「鎮遠」(排水量7200t)に対抗する1万tを超えた戦艦2隻「富士」、「八島」の建造をイギリスの「テムズ造船所」、「エルジック造船所」に依頼します。1893年時点では日本には定遠、鎮遠を超える大型戦艦は無くそれ故、明治天皇は宮中の予算と公務員の給料を削減し建造予算を成立させたと言います(竣工は日清戦争終了後)。   

 
         
戦艦富士の規模、装甲、機関   
         
   
 戦艦富士型はイギリス戦艦「ロイヤル・サプリン級」の改良型で基準排水量12500t、全長122mの日本初、世界基準の戦艦と呼べる軍艦でした。   
   
 装甲厚は弦側水線部で最大457mm、甲板63mm、砲塔部356mmと日本海軍においては戦艦大和を凌ぐ装甲厚です、これは軟鉄表面を鋼鉄覆う二重構造(従来の装甲)にしたためにこの様な厚さになったとされ、同時期に考案されていた金属の硬さと柔軟性を兼ね備えた一体型の装甲と比較して過剰な厚みとなり艦の主要な箇所のみの装甲で留めています。   
   
 機関は石炭専用焼缶のレシプロ式(往復機関)2基でスクリュー2基を回転させ最大出力13500hp、最大速力18.5ノットまで発揮できます、当時の主力戦艦としてはまずまずの速力と言えるでしょう(北洋艦隊定遠は14、6ノット)。   

 
         
富士の主砲   
         
   
(艦首側の40口径30.5cm連装砲塔)   (艦尾側の40口径30.5cm連装砲塔)   
         
 主砲は「アームストロング社」の40口径30.5cm砲4門を2基の連装砲塔に収め艦中心線上の艦首と艦尾に1基づつ配置されています、この砲塔配置はこの頃に大凡定着されたもので後年イギリスの弩級戦艦「ドレッドノート」が誕生するまで最もオーソドックスな砲塔配置として各国の主力艦で採用されています。この40口径30.5cm砲は386kgの砲弾を最大13700mまで飛ばせ北洋艦隊定遠級の25口径30.5cm最大射程7800mより数段高性能でした、しかしこの時代の戦艦は砲弾を弾薬庫から運び上げる揚弾塔(砲弾様のエレベータ)がバーベットの外側にあり発砲後に砲塔を同じ位置に戻し揚弾筒から砲塔に砲弾を入れまた射撃方向へ砲塔を回転させる作業を繰り返していました、その為、発砲速度は5分間隔で1発と弾薬装填に非常に時間がかかっていたのです。  
   
(弦側に向けられた主砲4門)   

 
         
副砲   
         
   
(片弦側に配置された15.2cm砲5門)   
         
 副砲は同アームストロング社製の40口径15.2cm砲を両弦側の甲板上に3門、船体側面に砲郭化した状態で2基の計10門が配置されています、この40口径15.2cm砲は最大射程9150mで1分間に平均6発の射撃が可能でした、当時主砲の発射間隔に間が空く分、副砲で補っていたのでしょう。  
   
(甲板上に配置された47mm砲)  (船体側面に配置された47mm砲)   
         
 更に対水雷艇用の43口径及び33口径の47mm機関砲を船体側面及び甲板上、マスト監視塔に計24門配備されています。   

 
         
日露戦争での戦艦富士   
         
 富士型の2隻である「富士」、「八島」が就役する頃には日清戦争は既に終結していました、就役後それら2隻は一等戦艦に分類され清国から接収した鎮遠と既存の扶桑を30.5cm砲及び24cm砲の巨砲を搭載している事で二等戦艦に分類しています、富士型就役から日露戦争に向けて帝國海軍は更に性能、規模共に上回る戦艦敷島、初瀬、三笠などを続々購入、富士型は直ぐに旧式艦となります、しかし日露の海戦において戦艦富士の性能、攻撃力は十分主力艦に位置付けられるものでした。   
   
 日露の海戦で戦艦富士は戦艦三笠を旗艦とする主力艦隊「第一艦隊、第一戦隊」に所属し旅順港閉鎖作戦、旅順口攻撃作戦、黄海海戦に参加しています。
  1904年5月15日旅順沖を航行中の戦艦初瀬がロシア海軍の機雷にふれ突然爆発、更に初瀬救済中の富士型2番艦八島も機雷に触れ爆発します、八島は応急処置後に自力で航行しようとしますが進水が激しくそのまま沈没、日本海軍はこの日主力艦2隻を失う事になります。
 1905年5月27日「日本海海戦」で富士は艦隊先頭の旗艦三笠から数えて敷島、富士と3番手を随行しています。初日の海戦で他の主力艦と共に旗艦オスリャービャを初めボロジノ、アレクサンドルⅢ世などバルチック艦隊主力を次々撃沈し当艦も多大な被害を受けながら日本海軍を勝利に導きます。
 1912年に富士は日本海海戦での収穫艦である壱岐、丹後、石見、相模、周防と共に1等海防艦に分類され1922年にはワシントン条約の制限対象となり兵装、装甲がはずされ横須賀に係留、海軍学校練習艦(所謂浮上校舎)となります。
 太平洋戦争終結まぎわの米軍による横須賀空襲で富士は炎上し海底へと着底、1948年に解体されました。
 

 
         
戦艦富士   
         
 基準排水量  12533t  兵装    
 全長  122、6m  40口径30.5mm連装砲塔  2基(4門)  
 最大幅  22,3m  40口径15.2cm砲  10門  
     43口径47mm機砲  20門  
 機関  三段膨張式三気筒レシプロ式2基2軸、石炭専用焼缶  33口径47mm機砲  4門  
 最大速力  18.5ノット  45.7cm水上魚雷発射管  1基  
 最大出力  13500hp  45.7cm水中魚雷発射管  1基  
         
 装甲厚    1894年8月起工    
 弦側水線部最大  457mm  1896年3月進水    
 甲板部  63.5mm  1897年8月就役    
 砲塔部最大  356mm  1945年11月除籍    
 バーベット部最大  356mm      

 
         
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