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関東を代表する水軍、北条水軍、武田水軍、里見水軍の編制体制と主な水軍基地について見てみましょう。 |
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北条水軍 |
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伊豆半島では古くから水軍、海賊が発生していました、1491年(延徳3年)伊勢新九朗宗瑞(北条早雲)が堀越公方足利茶々丸を殺害し伊豆国を占領し同国韮山城に拠点を置くとそれら伊豆半島の水軍、海賊は北条氏の傘下へと組み込まれたです、更に早雲は小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させ旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収し三崎十人衆として三崎周辺を領有させました。 |
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新井城と油壺湾 |
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小田原北条氏は新井城を占領した後に南側の油壺湾に軍船を配置して軍港に利用します、油壺湾は深い入江の為に波も穏やかで船団を配置するのに適していました。 |
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(油壺湾) |
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三崎城と三崎湾(北条湾) |
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三浦氏の時代に三崎城は新井城の出城でした北条氏の占領後眼下の三崎湾は北条氏最大の軍港と成ったのです。 |
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伊豆水軍と三浦水軍を組み込んだ北条氏ですが江戸湾を挟んだ房総の里見氏、駿河に進出した武田氏の両氏の水軍力と比較すると十分な備えとは言えませんでした、そこで北条氏は紀州の海賊梶原氏を招き知行役の免除などを条件に傭兵水軍として三浦半島に配置したのです、梶原水軍は三崎十番衆(三浦水軍)と連携して三崎城主北条氏規(北条氏康の子)の指揮下で北条氏の主力水軍として活躍しました。 |
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江戸城と平川郷神田の湊 |
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1524年(大永4年)北条氏綱は扇谷上杉朝興を追い出して江戸城を占領します、中世平川(神田川)の河口部は深い入江と成り海岸線が江戸城の手前まできていました、この細く長い入江は軍船を配置するのには最適で北条氏統治時代に軍港として利用されていました。 |
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里見水軍 |
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房総半島を領有する里見氏は三方を海で囲まれている関係上古くから水軍を有していました、その里見氏に属する水軍諸氏として安西氏、正木氏、吉田氏、向井氏が上げられます、安西氏は安房国の土着領主であり正木氏は三浦氏の系統です、里見氏は百首城、金谷城、勝山城、岡本城、白浜城、勝浦城などを主だった水軍基地として江戸湾を挟んだ北条氏と対抗していました。 |
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勝山城と勝山湾 |
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房総半島の内房側に位置する勝山城、百首城などの里見氏の水軍基地は北条水軍の拠点三浦半島の目と鼻の先で北条水軍による奇襲に対する十分な備えと警戒がなされていました。 |
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(勝山湾) |
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館山城と館山湾 |
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1590年(天正18年)の夏里見氏9代義康はそれまで居城としていた岡本城から此処館山城へと移転します、正面の三浦半島に睨みをきかせる予定でしたが当城が完成する前の同年7月には既に小田原城は落城していました、もし小田原城の落城が先送りになっていたのなら館山湾内に無数の軍船が配置されていたのでしょう。 |
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(館山湾) |
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勝浦城 |
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(勝浦城) |
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勝浦正木氏は安西氏と並ぶ里見氏の主力水軍でその編制もまた主として海賊衆を束ねたものです、第二次国府台合戦により里見氏が小田原北条氏に敗退すると勝浦正木氏は一時北条氏の軍門へ降りますが後に里見氏に帰属しています、当時里見氏は第二次国府台合戦の敗退により下総国での覇権を北条氏に奪われ更に主力水軍である勝浦正木氏が北条方へ転じた事により危機的状況に立たされます。 |
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(勝浦湾) |
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弘治2年三浦沖の海戦 |
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1556年(弘治2年)里見義堯の子義弘は勝浦の正木時忠、秋元民部、安西介三郎・・・・ら兵船80余隻を従え房州稲村浦の高野島から七里の海上をへて相州三崎に着船し城ヶ島に陣をはりました、北条方は梶原備前守以下、山本、三浦、三富ら居合わせの兵力に小田原から加勢に来た富永政家、横井越前守・・・の兵力を合わせ兵船を繰り出します、海戦は里見方の優勢に展開したのですがその夜に暴風雨となり里見方の船が沖に流された為にやむなく里見方は安房、上総の各湊に帰港しました、この海戦を見る限り里見氏は軍船の数も水軍の組織力も北条氏を上回っていたので海戦を有利に展開できたのでしょう。 |
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武田水軍 |
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1568年(永禄11年)武田信玄は駿河に侵攻し今川氏真を破り駿河一国を占領します、それまで甲斐、信濃と四方を山に囲まれた国を領有していましたが海に面した駿河を占領する事により水軍の必要性がでてきました、そこで信玄は旧今川家配下の海賊諸氏を吸収したのです。 |
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甲陽軍艦に見る武田海賊衆 |
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一、間宮武兵衛・・・・・船十隻 |
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一、間宮造酒丞・・・・・船五隻 |
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一、小浜・・・・・・・・・・・あたけ一隻、小船15隻 |
あたけ・・・1隻 |
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一、向井伊兵衛・・・・・船五隻 |
船・・・・・・・37隻 |
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一、伊丹大隈守・・・・・船五隻 |
小船・・・・・15隻 |
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一、岡部忠兵衛・・・・・船十二隻 |
合計53隻 |
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武田氏は清水港の江尻城を水軍の本拠地として駿河湾一帯に水軍を配置したとされています、間宮氏、伊丹氏、岡部氏は旧今川氏の水軍で小浜氏、向井氏などは紀州、伊勢方面の海賊衆です、北条氏と同様に信玄はそれら海上戦に秀でた紀州、伊勢の海賊諸氏を向かえて傭兵水軍として雇い入れたのです。 |
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オープニングムービー |
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