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 江戸城  
         
         
   
         
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 築城年代 1457年(長禄元年)  
   
 江戸城の歴史  
         
 1457年(長禄元年)太田道灌により江戸城が完成されます、その江戸城が1590年(天正18年)徳川家康が関東に入府して幕府を開き拠点と成るまでの130年間に如何なる歴史をたどったのか、又築城により周辺地域に与えた影響などについてまとめてみました。  

 
         
 築城までの過程  
         
 関東に措いて独自の政権体制を確立させんとする関東の公方職足利成氏は享徳の大乱を起こし、時の関東での最高権力者である関東管領山ノ内上杉氏と親族の扇谷上杉氏に宣戦布告をします、成氏は結城、宇都宮、小山、小田、佐竹ら北関東の有力諸氏の力を借り、下総古河を本拠地として古河公方を名乗り管領山ノ内方に対する交戦態勢を固めます、一方山ノ内方は各地で苦戦をしいられ態勢挽回に苦しんでいました、そこで扇谷上杉氏の家臣太田資長(道灌)、資清親子は河越城を中心として深谷城、岩槻城、江戸城を築き上げて公方がたの古河城、忍城、関宿城、騎西城と対陣するかたちで防衛ラインを引き、南関東、山ノ内方の戦闘態勢をかためます。  

 
         
 江戸城築城後のゴタゴタ  
         
 道灌の活躍により管領方は優勢を挽回する事ができましたがそのままスムーズに勝利し乱鎮圧と言う訳にはいきませんでした、管領家執事職跡目問題に不満を抱いた山ノ内家臣長尾景春が反旗を起こし公方がたと手を組んだのでした、更に秩父党の豊島泰経と同秩父党江戸氏が公方がたへ寝返り、江戸城、河越城間の連絡路を寸断したのです。その背景には江戸城の在る平川郷、桜田郷と其の付近は1368年(応安元年)の平一揆の乱以前は江戸氏の所領であり江戸館、桜田城、石浜城と江戸氏庶流の主要な城、館が点在していたのですが平一揆(河越、高坂氏)に組した罪により所領の3分の1を没収され平川、桜田郷と豊島郡の所領の大半を失う事に成り、その勢力を現在の蒲田、千束、丸子辺りまで後退させられます。江戸氏はこの大乱を勢力回復のチャンスとばかりに旧領地の撤回を計り、豊島泰経も同様に江戸城と隣接する豊島郡の覇権を巡って道灌と対立し、江戸、豊島の両者が蜂起したのです。そこで道灌は赤塚城の武蔵千葉氏自胤と豊島氏の同族である志村城の志村氏の力を借りて江戸、河越間の連絡路を回復します、なぜ志村氏が豊島宗家を見限り道灌に付いたのか定かではないのですが一応この時点で豊島氏とは敵対関係に成ります。更に道灌は沼袋、江古田で豊島、江戸軍を撃破して豊島氏の本城である石神井城、平塚城を落城させました。その後、長尾景春を奥秩父に追い詰めた道灌は景春の最後の拠点、熊倉城を攻め落とし景春の勢力をおさえ1482年(文明14年)に室町幕府将軍足利義政と古河公方足利成氏が和解し享徳の乱は一応の終止符が打たれるのですが事それでは収まらず享徳の乱に措いてその力を拡大し尚且つ関東諸氏から信認された道灌を管領山ノ内上杉顕定は恐れ、道灌の主君扇谷上杉定正に謀反の疑い有りと中称し定正は此れを誠の事と信じて相模の国の糟屋で道灌を殺害してしまいます、この事件により山ノ内、扇谷両氏は分裂、関東は新たな大乱の道へと向かっていったのです。  

 
         
 北条氏支城へ  
         
 関東は山ノ内、扇谷の内紛、長享の乱へ突入します、当初扇谷上杉定正は伊豆国を統一した伊勢宗瑞(北条早雲)と手を結び山ノ内顕定と対戦しますが1495年(明応4年)比企郡高見原の合戦の最中に急死、定正の子朝良が扇谷氏を継ぎました、早雲が小田原城の大森氏を滅ぼし、次第に相模国内で勢力を拡大すると朝良は拠点の相模国を離れ江戸城に入り早雲と手を切り山ノ内顕定と和解し引退して弟の朝興に家督を譲ります、1524年(大永4年)事実上、江戸城の実権を握っていた道灌の孫太田資高は北条氏綱と内通して朝興を河越城に追放し江戸城開城しました、当然資高は自分が江戸城の城代に成るものと思っていたのが氏綱は城代を遠山綱景に任命し資高を赤羽の稲付城主としたのです、その資高は1547年(天文16年)に死去、資高の子康資が江戸太田氏の惣領と成ります、康資は氏綱の娘と資高の間に生まれた子で康資の康は北条氏康の諱の一字で当初北条氏の家臣として稲付城を守っていました、しかし1561年(永禄4年)上杉謙信の関東への侵攻が始まる頃、岩槻太田氏、資正(太田三楽斎)はこの期に乗じて江戸城を撤回し葛西城を占拠します、同族資正の華々しい活躍振りに康資は黙って見ている事はできず、1564年(永禄7年)里見義弘と手を組み国府台にて北条氏康と一大決戦に望みましたが結果は里見、太田連合軍の大敗に終わり義弘は安房へと退却し康資も同様に里見義弘に付いて安房へ逃れ、岩槻城の太田資正も実子氏資が北条へ寝返り資正を追放し岩槻、江戸太田氏は共に滅亡します。
 この合戦で北条氏は武蔵国内での基盤を固め、更にその力を上総まで延ばす事で要約と江戸城周辺の豊島郡、荏原郡に安定が訪れ、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原城攻撃(北条氏の滅亡)に至るまで江戸周辺は北条家の重臣遠山氏が江戸城代として統治管理するのでした。
 

 
         
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