日光街道筋は江戸日本橋から千住、草加、越谷、粕壁を経由して杉戸宿で旧鎌倉街道(古奥州街道)と合流、幸手、栗橋、中田、古河を通り宇都宮へ向かいます、宇都宮までは奥州街道筋と略同じ道筋でした。 日光街道筋にはその脇往還として中山道倉賀野宿から分岐して太田、栃木、鹿沼を通り今市で日光街道と合流する日光例幣使街道、小山宿から日光街道と分かれ壬生通り鹿沼で日光例幣使街道と一つになる日光西街道(壬生通り)なども存在していましたが今回は本道の日光街道筋を歩いてみる事にしました。 |
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日光街道筋の並木道 | ||||||||||||||||
(古河宿柳町北口、県道261号線との合流点) | (北口付近にある道標) | |||||||||||||||
古河宿柳町の北口を出ると日光街道は県道261号線と合流します、北口付近には道標も立てられています、 此処から先の日光街道筋は小山宿に至るまで並木道となっていました、1622年(元和8年)から古河藩主永井右近大夫直勝と子息尚政により植えられた松並木であったと云います。 | ||||||||||||||||
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野木神社 | ||||||||||||||||
柳町を出て2km半程進むと左に野木神社の参道が日光街道筋に通じています、野木神社は今から1600年程前に建立され802年(延暦2年)には坂上田村麻呂が蝦夷征伐の戦勝祈願し社殿を新築を行っています、また源頼朝なども田畑を寄進したと云われています。 野木神社の参道鳥居から先で日光街道筋は現在の国道4号線沿いに通されていました。 |
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(野木神社参道) | ||||||||||||||||
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野木宿南木戸 | ||||||||||||||||
野木神社から少し進むと野木宿の南木戸が設けられていました、この南木戸は枡形であった様です。 野木宿は当初、野木神社付近に集落が形成され1602年(慶長8年)に日光街道の宿場として成立しています、1843年(天保14年)の頃には人口527人、家屋126軒、旅館23軒、本陣、脇本陣が共に1軒、問屋場4軒で宿内には一里塚が有ったそうです。 |
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野木宿、本陣、脇本陣 | ||||||||||||||||
(野木宿本陣) | (野木宿脇本陣) | |||||||||||||||
南木戸を通り抜けて宿内に入り200m程進んだ所が野木宿本陣でその斜め向かい側が野木宿脇本陣でした。 | ||||||||||||||||
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満願寺 | ||||||||||||||||
本陣跡から500m程進むと野木神社の別当寺「満願寺」で門前には十九夜塔がおかれています。 | ||||||||||||||||
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野木宿一里塚 | ||||||||||||||||
満願寺から100m程先の交差点は野木宿の一里塚跡です、江戸から大凡17里の位地で塚の上には榎が植えられていました。 | ||||||||||||||||
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浄明寺 | ||||||||||||||||
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一里塚跡から200mの所に浄妙寺があります、此処の門前にも十九夜塔が立てられています。 | ||||||||||||||||
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大平山道との追分 | ||||||||||||||||
浄明寺から500m先の丁字路は大平山道との追分でした、大平山道は下生井、白鳥、部屋、榎本を通り栃木で日光例幣使街道と合流する裏街道で日光への近道です、大平山神社へ参拝する人達がよく利用していたので大平山道と称され、道標にも「是より大平道」と刻まれています。 | ||||||||||||||||
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野木宿北口観音堂 | ||||||||||||||||
(観音堂の十九夜塔) | ||||||||||||||||
大平山道から200m先の所に観音堂が見えます、此処が野木宿の北口でした、この辺り十九夜信仰がかなり盛んであったのでしょう、この観音堂の前にも十九夜塔があります。 | ||||||||||||||||
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日光街道 | ||||||||||||||||
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(鎌倉街道中道古河宿) | ||||||||||||||||