(多摩郡氷川郷) | ||||
杣保からの産物は杉、檜などの木材以外にも漆の採取、建物の土台に使用する石材の採掘、木炭の生産なども行われていました、また江戸期に入ると石炭の需要が高まり石炭の採掘も始まります、いわば武州杣保は山間産物品の供給地でありました。 | ||||
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漆 | ||||
ウルシカの木が多数生息する奥多摩地方は古代より漆の採取が行われていました、古代に措いては平城、平安の都で中世に措いては鎌倉などの都市部で需要があり主に食器、家具などの塗料に使われていました、また江戸期には鋳物と鋳物を接合する接着財としても需要がありました。 | ||||
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木炭の生産 | ||||
古代、中世、江戸期に措いて木炭は生活上不可欠な燃料であり此処奥多摩地方では古くからその生産と供給が行われていました。 | ||||
(炭焼きイメージ) | ||||
現在は見られなくなりましたが昭和30年代頃まで奥多摩地方では炭焼小屋が農家の庭先や山林などいたるところに建てれていました。 | ||||
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木炭の供給地氷川郷 | ||||
新編武蔵風土記稿に「日原及近きあたりの山中より日々ここへ炭を負い來れり、又青梅邉よりも日毎に馬を引來りこの地の炭・白箸木履、其外山中よりつくりだせるさまぐの品を買とりてあきなふ、彼是交易の所なり、」江戸期の頃日原など氷川郷で生産された炭は此処氷川村(現在のJR青梅線奥多摩駅周辺)へ毎日の様に運ばれ青梅、江戸から商人達が買いつけにきていました。 | ||||
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小名(宿) | ||||
氷川村内に裏甲州街道筋の宿所があり日原など周辺集落から運ばれた炭は一旦此処に集められ取引されていました。 | ||||
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日原街道 | ||||
氷川村の小名(宿)と日原の集落を繋ぐ街道筋で中世後半から江戸期にかけて木炭を背負った生産者がこの道筋を頻繁に往来していました。 | ||||
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日原 | ||||
東京都奥多摩町日原は今から500年程昔に戦国の乱を避けてこの地に逃れた落武者により切り開かれた里です、新編武蔵風土記稿に「原島丹次郎友一といひしが、天正年中の乱を避けてここに来りしより」とあります、相次ぐ戦国の争いを避けて武蔵七党、丹党原島氏は故郷の武蔵国大里郡を離れ此処に移り住んだのです、当時日原は四方を険しい山に囲まれ田畑を開拓する事が困難であり主な生活の糧は山から産物と林業でした。 日原の集落から日原街道を北へ進むと秩父の山々へと向かいその山々を越えると奥秩父へと出られます、中世日原は秩父との交易が盛んに行われていたのです、日原の集落は秩父、奥多摩地方を結ぶ繋ぎの宿でもありました。 |
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中世、日原と秩父地方は宗教、文化と多面的に影響を受けあっていました、また秩父浦山口方面に原島姓の家々が数多く見られるのは奥秩父と日原の交流が盛んに行われていた一つの証です。 | ||||
(秩父丹党守護神丹生社、 一石山神社、) | ||||
日原には武蔵七党、丹党の守護神丹生社が祭られています、これは原島氏が丹党の流れである事を意味しています、また秩父三峰神社で毎年8月に行われる獅子舞は日原の一石山神社からその原型が伝わったと云われています。 | ||||
(日原鍾乳洞) | ||||
日原には全長800mにも及ぶ関東随一の鍾乳洞があります、かつては山岳信仰で栄えた聖地でした、その奥には広大な空間が広がり地下聖堂を思わせる様相です。 | ||||
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氷川明神社 | ||||
氷川村の村命の由来と成った神社で丁度氷川村の中心地である宿の入り口付近に鎮座し裏甲州街道が社殿の脇を通っていました。 | ||||
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石材の採掘 | ||||
(武蔵国衙、 武蔵国分寺尼寺の基壇礎石、) | ||||
奥多摩地方にはチャート岩が露出している場所がよく見られます、チャート岩とは二酸化ケイ素を主成分として海洋微生物などの化石が堆積してできた非常に硬い石で縄文期には石器などによく使われています、チャート岩は武士の館や寺院、仏閣など比較的大きな建物の土台、庭園の礎石に使われ奈良期には武蔵国衙、国分寺の建設の際に建物の土台の礎石として使用されました。 | ||||
(武蔵国衙の土台礎石) | ||||
それらチャート岩は杉、檜などの木材と同様に建築資材として此処奥多摩地方で採掘され平野部へ輸送されていました。 | ||||
(武蔵国分寺金堂、 国分寺金堂礎石、) | ||||
双竜の滝の壁面に見るチャート岩 | ||||
JR青梅線鳩ノ巣駅近くの双竜の滝の壁面はチャート岩で形成されています、奥多摩から秩父のかけての山間部にはこの様なチャートの露出面が各地に見られこれら露出したチャート岩を火で焚き上げ水をかけて一気に冷却しハンマーやツルハシの様なもので叩いて砕き建材として使用する為に運び出していたのでしょう。 | ||||
(双竜の滝) | ||||
削り取られた石は木材と同じく修羅に載せ多摩川本流まで運ばれそこで筏に積み替え降雨などで河川の水量が増す事に下流へと押し流し輸送していたのでしょう、近年までこの方法は使われていました。 | ||||
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