(奥多摩町を流れる多摩川)
古来より多摩郡奥多摩町周辺は良質の杉、檜など木材の産地でした、その範囲は現在の奥多摩町、青梅市から入間郡、比企郡にかかる広大な面積で奈良、平安期から中世、江戸期そして現在に至るまで関東東部で使われる木材及び木炭、漆、石材など山の産物を産出していたのです。
武州杣山の起こり
701年(大宝元年)大宝律令が制定されると全国を60余国に分け国府が配置されます、武蔵国においては現在の府中市の大国魂神社にその中心と成る庁舎が置かれました、その規模は木造立柱式庁舎373戸、下級官僚または下人の住居であったと考えられる竪穴式住居が1812件と大規模なものでした、更に737年(天平9年)武蔵国府に隣接する現西国分寺市(旧東山道沿い)に武蔵国分寺と国分寺尼寺の建設が着工されます、武蔵国分寺は南北1km東西1.5kmの敷地に1000人以上の僧侶、寺院関係者から成る当時としては奈良の東大寺に次ぐ大寺院で20年の歳月をかけて完成されました、それら武蔵国府、国分寺、尼寺を総じて当時としては一つの都市に相当する規模でその一大建設事業に必要な木材と関係資材の搬入を行ったのが多摩地方の武州杣山です。
杣山から杣保へ
杣山とは木材の切り出し、植林の為の山を指して呼びます、奈良期武州杣山は国衛の杣山でその範囲は奥多摩地方から高麗郡、入間郡西部、比企郡西部更に飛地として秩父地方の金尾、黒谷が該当していました、多摩地方が国衛の杣山に指定された理由は杉、檜など建築に必要な巨樹の生息地でそれを切り出し輸送する河川である多摩川が付近を流れ巨樹同様に建築資材である石材(チャート岩)が採取可能であった為と考えられます。
平安期に成ると律令体制による公地公民制は次第に崩れ日本各地に荘園が出現します、此処武州杣山は何時の頃か定かではありませんが杣保(ソマノホ)と呼ばれる様に成ります、杣保の杣の文字は前にも述べたとおり木材などを切り出す山で杣山を意味して保の字は荘園または牧と同じく在地領主の所領を意味しています、国衛の杣山であった武州杣山は中央が直接的に管理、領有していたのですが時代を経て管理面を在地領主が行う様に成り山からの収益も次第に領主達が優先し荘園化したと考えられ中世期には杣保と称され在地領主の私有地と成ったのです。
奥多摩地方の巨樹
(古里附のイヌグス、タブノキ)
(氷川地区氷川神社の三本杉、 倉沢の檜、)
(梅沢のイヌグス、モチノキ、 丹三郎地区丹生社の杉、)
三田氏の出現
(勝沼城の下手の三田氏菩提寺妙光院)
中世武州杣保の実質的支配、管理を行ったのが自称平将門の末裔三田氏です、三田氏が最初に記録上に登場するのは鎌倉中期の1250年(建長2年)の造閑院殿雑掌事に「三田入道跡」とあり鎌倉期には三田氏が鎌倉御家人として杣保を領有していたのでしょう、三田氏は青梅勝沼を本拠地として杣保の管理、経営を行います、杣保から産出される木材、石材、漆、炭などによる収益は壮大なもので三田氏はその蓄えを寺社仏閣などの造営、修復などにあて青梅、奥多摩地方に一つの仏教文化圏を築き上げる程でした(三田仏教文化)、その三田氏は乱世の16世紀前半三田氏宗、政定の時代に全盛期を向かえます。
(勝沼城土塁、空堀)
丹党原島氏
(奥多摩町丹三郎地区、 丹三郎地区の丹党守護神丹生社、)
新編武蔵風土記多摩郡丹三郎村の項に「明応天文の比、原島丹三郎友連なるもの居住せしより、村の名とはなりしと云」、「その先祖は當國七黨の内、丹之黨丹貫主峰時の後裔にて、原島丹三郎友連と云。この友連より十餘代の祖先・足立郡原島村に居住せしより、在名を以つて氏とせり。友連も文明八年原島村にて出生せし人にて、小田原北条家に奉仕して後、この邊を領し、天文年中に死せり。」また同郡原村の項に「祖先は丹治比姓にて、熊谷次郎直實が末流なりし丹次郎丹三郎と云へる兄弟の者、當國忍領原島村に居住せし故、在名をもつて氏とせり。」日原の項には「原島丹次郎友一といひしが、天正年中の乱を避けてここに来りしより」丹党原島氏は足立郡、大里郡に所領をもつ在地領主でしたが相次ぐ戦乱をさけて奥多摩地方に居住しました、武蔵七党の丹党の出である原島丹次郎、丹三郎兄弟は当初日原に居を構え次いで弟丹三郎が丹三郎村を開拓し更にその子孫達により、大丹波、小丹波、原村が開拓されました、原島一族は奥多摩地方に点在し小田原北条氏の傘下杣保の管理、運営を委託され北条氏没落後は帰農し土民として山間の業務に従事したのです。
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