関東、温泉と旅行記  榛名、高崎、藤岡方面      
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 高崎城  
         
         
   
         
 高崎城CG、写真1 高崎城CG、写真2 城下中山道高崎宿  
         
 築城年代 慶長2年(1597年)  
         
 高崎城は平安末期に和田業信により現在の高崎城の南側の和田の地に居館である和田城を築城したのが前身です、戦国期に入ると和田氏は上杉謙信に属しますがその後謙信に反旗を起して武田信玄に属しました、此れにより謙信から和田城は幾度も攻撃を受ける事になりますがその都度攻撃をかわしたと云います。  

 
         
和田氏の滅亡  
         
 1575年(天正3年)和田家当主の和田業繁は川中島の合戦で討ち死にします、その跡を継いだ和田信業は武田家が信長の甲斐国侵攻により滅亡の危機にさらせると小田原北条氏に一旦属しますが滝川一益が武田家の滅亡後に信長より上野国支配を命じられると一益の配下に組み込まれ織田家の家臣になります、その後信長が本能寺で討ち死にすると北条氏政は上野国と武蔵国の境である神流川で一益の軍勢を撃破し上野国南部を手中に収めます、更にその勢力を上野国全体にに拡大させる動きを見せると信業は小田原北条氏に帰属しました、1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原征伐により小田原北条氏が滅亡すると和田信業は小田原城に籠城していた事もありその領地は没収され和田氏は終焉となりました。  

 
         
 高崎城の築城  
         
 小田原北条氏の滅亡が徳川家康が関東に入府します、それにより上野国は徳川家家臣に分割されました、1597年(慶長2年)箕輪城を任せられていた井伊直政は家康の命により旧和田城の北側の鳥川沿いに高崎城を築城します、翌年直政は高崎城に入り箕輪城の城下の町家、寺社などを高崎に移築させ城下市街を整えて城郭、城下共に完成させました、1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦で徳川軍が勝利すると徳川家の勢力は更に拡大し家臣の知行地も増やされます、それに伴い直政は近江国佐和山に移転となり高崎城には諏訪氏が入城しました。  

 
         
 明治維新後の高崎城  
         
 直政の後に高崎城の城主は諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平氏・・・・・と幾度も変わり明治維新に至ります、明治維新後の1873年(明治6年)に廃城または存城を取り決める廃城令が発せられると高崎城は陸軍駐屯地として利用される事になります、その後高崎城の城内の施設は駐屯地の新設に平行する形で徐々に取り壊され三ノ郭の水濠、一部石積、東門、乾櫓などを残すのみと成っています  

 
         
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