築城年代 1487年(長享元年)
1487年(長享元年)現在の小諸城から北東600mの位置に大井光忠が築いた鍋蓋城が小諸城の前身です、その後光忠の子息大井光為により現在の小諸城二ノ丸に乙女城が築城されます、大井氏が鍋蓋城から退くと武田信玄は1554年(天文23年)山本勘助に命じて乙女城を小諸城として大改築を行い鍋蓋城を出城としました。
武田家滅亡後の小諸城
1582年(天正10年)甲斐武田氏が滅亡すると小諸城は織田信長の家臣「滝川一益」の持ち城となります、しかし信長が本能寺で討ち死にすると滝川一益は北条氏政の攻撃を受けて神流川で大敗して関東を退きました、それにより小諸城は一旦小田原北条氏の支城となりますが小田原北条氏が徳川家康と対陣すると小諸城は最前線の要害となりその後北条家と徳川家が和解する事により徳川家に引き渡されました。
1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原征伐により軍功のあった仙石秀久が5万石を与えられ徳川家と入れ替わりで小諸城に入ります、小諸城を居城とした秀久は小諸城の大改築を行い近代城郭に造り変えています、この時に秀久は本郭、ニノ郭、三ノ郭などに強固な石垣を構築しました。
江戸期以後の小諸藩
1622年(元和8年)二代目仙石忠政が上田へ転封となり小諸領は甲府藩に併合され後に松本藩に属して小諸藩は一時廃藩となりました、1648年(慶安元年)青山氏が3万石で小諸城に入り小諸藩は復活しその後は酒井氏、西尾氏、石川松平氏と城主が代わり最終的に牧野氏が入城して幕末まで藩主を継続しています。
最後の藩主「牧野康済」時代に小諸藩のお家騒動である小諸騒動により康済は家臣に誤った処分を行い明治政府より謹慎令を出されますが版籍奉還で小諸藩知事に任命されて復帰します、その後廃藩置県により小諸藩は解体され康済は免官された後に華族令により子爵と成りました。
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