河越氏館が築かれたのは12世紀中頃(平安末期)河越氏の祖、秩父重隆(河越重隆)の子河越能隆により入間郡河越庄上戸に館を築いたのが始まりです。
もとより河越氏とは桓武平氏の分流武蔵七党の一派秩父党より輩出された氏族で当初河越館が築かれた頃には河越庄の荘園管理並び現、毛呂山町の牧、言わゆる牧場経営により氏族の財源としていました。能隆の時代河越氏は保元物語の中で高家(他の氏族より領地、兵力、財力、共に抜きに出た党の上に立つ者で後に言う大名的立場)と記されている事からその勢力は武蔵国において絶大なものでした。
時代をさかのぼり南北朝の頃に河越氏は平一揆なる武装集団を編成させるのですがこの平一揆とは河越氏を中核としてその一族の高坂氏、竹沢氏、と同じ秩父党の豊島氏、江戸氏などにより組織された一揆(中小武士団による軍事同盟)で不安定な時代において自らの自立と自主を中央に主張するため一大軍事勢力でした、又当時この一揆は日本全国に存在して南北朝から戦国期においての傭兵部隊のようなもので自らの利害に基づいて有利な方に見方をする性質をもっていました。さてこの平一揆ですがこと足利尊氏の強い信頼を受け中心的立場の河越氏は相模国守護職、同族の高坂氏は伊豆守護職を受けるまでに至り、鎌倉府体制(鎌倉に中央将軍職と同等の権限を持たせた将軍職をおいて関東を支配する体制)の中で重要な位置付けをしめていました。しかしその平一揆も上杉憲顕の政権復帰により上杉氏と対立、1368年(応安元年)に蜂起して河越館に篭城したのです、結果、河越氏、高坂氏、竹沢氏は滅ぼされ同続、秩父党豊島、江戸氏は領地の3分の1を没収されたのです。
その後の河越館は扇谷上杉氏が入り、長享の乱(1488~1505年)においては山ノ内上杉顕定の陣所として利用され、小田原北条氏が入間郡を支配した時期には大導寺駿河守が居城、1590年(天正18年)北条氏滅亡の後に廃城と成りました。
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