関東、温泉と旅行記 | 熊谷、大宮、岩槻方面 | |||
築城年代 15世紀末 | ||||
戦国期の忍城の歴史とは城主成田氏興亡の歴史で15代親秦の頃、北武蔵最大の勢力と成った成田氏が17代氏長で小田原の役の際、石田三成に降伏するまでの成田氏存亡の戦記でもあるのです。 成田氏祖は藤原道長の系統と武蔵七党(桓武平氏)の系統の2つの説が有り何れか定かではありません、五代助高の時代、騎西郡成田(埼玉県熊谷市)に館を構え地名を取り成田氏を名のります。 |
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近隣領土制覇、戦国大名へ | ||||
成田氏は上杉禅秀の乱、永享の乱と戦功を上げ宇都宮、小山、佐竹氏らと並ぶ関東八家と称されます。15代親泰は享徳の乱に乗じ、忍館の忍大亟を滅ぼして忍氏の所領を制圧、此処に忍城を築城し成田氏の本拠地とします。更に親泰は長享の乱で山ノ内上杉軍として扇谷上杉方の与党武蔵大椽重行を討ってその領地を併合し成田の旧同族であった別府、玉井、箱田氏らの所領(熊谷市)に侵攻して降伏させ成田氏の被官とし領土拡大させます、この時期、成田親泰の総兵力は1千騎を数え北武蔵最大勢力を誇り戦国大名へと上り積めていったのです。 | ||||
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成田長泰の失態 | ||||
16代長秦の時代に成ると小田原北条氏が武蔵国にて勢力拡大し、1546年(天文15年)山ノ内上杉、古河公方足利晴氏、扇谷上杉氏による河越城撤回作戦後に成田氏は北条氏康に属しますが1561年(永禄4年)山ノ内上杉憲政より関東管領職を譲り受けた長尾景虎(上杉謙信)は北条氏打倒のため相模へ侵攻し成田長泰も他の武蔵武士と共に此れに従軍します、景虎は小田原城を包囲した後、鎌倉鶴岡八幡にて関東管領就任の参拝を行います、この時、成田長泰は景虎に礼儀するべく鶴岡八幡の総門前にいました、成田家は源頼義、義家の頃からの大将同士が同時に馬から降りて礼儀をするのがしきたりで当然景虎もその事を知っているものと馬上にて景虎を待っていたのです、もちろん景虎もそれを知っていましたが長泰を見るなり「関東管領に就任した自分の前で馬上に居るとは何事だ」とばかりに長泰を馬から引きずり降ろし長泰は慌てて土に這いつくばり詫びを求めたのです、大衆の前で面目を完全に潰された長泰は力を落として忍城に引き上げ景虎を見限り北条氏の傘下へ下って行きました。 | ||||
鶴岡八幡総門前 | ||||
(この門前付近で長泰は馬にまたがり景虎を待っていました。) | ||||
成田氏を敵にまわした上杉謙信(長尾景虎)は後の武蔵侵攻の際に大きな痛手となります、謙信は数回に渡り忍城を攻撃し羽生城、騎西城など支城を占領しますが堅固な構えの忍城を落城させる事はかなわず武蔵国侵攻のクサビと成ってしまったのです。 | ||||
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忍城水攻め | ||||
1590年(天正18年)名胡桃城での真田氏、小田原北条氏家臣安保氏との騒動を切っ掛けとして豊臣秀吉による小田原北条征伐が始まり忍城も西国方の石田三成、大谷吉継、長束正家と佐竹、結城、宇都宮、多賀谷、佐野、水谷の秀吉方に付いた関東諸氏包囲されます。忍城の城主成田氏長と弟、泰親は500余騎を引き連れ小田原城へ入り代わりに忍城には城代として成田泰季、長親が300余騎、2600人程の城兵で守っていました。西国方は最初に力攻めを仕掛けますが忍城は沼地に築かれた堅固な城の為なかなか攻め落とす事ができずにいました、そこへ石田三成が沼地を利用して水攻めを掛ける案を出し現在の行田市埼玉古墳公園に在る丸墓山古墳に本陣をおき、そこを起点として忍城を囲む様に周囲7里に及ぶ堤防を築きあげ元荒川の支流忍川から水を引き込み堤防内を水で満々に満たします、しかし城内では全く降伏する気配を見ません、そこへ大雨が降り俄かで築いた堤防は決壊して大量の水が各西国陣営に流れ込み溺死者まで出してしまい水攻めは失敗におわります、そこへ秀吉から命を受けた浅野長政、真田昌幸が加わり再度の力攻めを試みますが三成方は多数の死傷者を出し又も失敗します、結局小田原城が落城するまで忍城を攻め落とす事はできず、小田原開城後に要約と三成へ城が引き渡されたのでした。 | ||||
水攻めの際に築かれた堤防址 | ||||
水攻めの時に築かれた堤防は後に石田堤と呼ばれ現在も行田市内とその周辺に残っています、堤の高さは大凡4mほどでかなり大きな堤防です、これだけの堤防が決壊した事を考えると相当の水量が溜まっていたのでしょう。 | ||||
石田三成が本陣を置いた丸墓山古墳 | ||||
石田三成は本陣である埼玉古墳群の丸墓山古墳を起点として大凡28kmにおよぶ堤防を築きあげて忍城を囲んだのです。 | ||||
(現在も残る石田堤址) | ||||
2度目の力攻めの際に石田三成方は忍城城主、成田氏長が小田原城で豊臣方と内通している事を知り忍城の門を開けさせ様とするのですが三成と浅野長政との間で折り合いが付かづうまくいきませんでした、そこで無理をかけた力攻めが再三に渡り繰り返されたのです。 小田原開城後も持ちこたえられた北条氏の支城は忍城だけで「本城落城せれども今だ此の城落城せず」と関東の名城として後々語り継がれたのでした。 |
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江戸期以降の忍城 | ||||
関ヶ原の戦い以後、忍城には城番役が置かれ城主不在の時代が数年間続き老中松平信綱が正式に城主として入り、1639年(寛永16年)信綱と交代して同じく老中阿部秋忠が城主に成ります、この頃から1702年(元禄15年)にかけて忍城の大改築と城下の拡張整備が行われ三層楼、二層楼などが建てられ家臣達の屋敷も新築されます、その後1823年(文政6年)阿部氏に代わり桑名松平氏が入城し1867年(慶応3年)大政奉還むかえ忍城は戊辰戦争の最中官軍の城と成り、1871年(明治4年)廃藩置県により忍藩は忍県へと改正され忍城は廃城となったのです。 | ||||
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