関東、温泉と旅行記  熊谷、大宮、岩槻方面    
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                  忍城CG、写真2




 忍城は主郭を中心とした郭群の東西に水濠(沼地)を隔て外郭群が設けられていました、中央の郭群には政務関係施設及び兵糧蔵、武器庫、馬屋などの城の主要施設がおかれ東西の外郭群には家臣団の屋敷、兵舎などが建ち並んでいました、東西外郭群は堀、土塁を境として大小の郭に区画され時代を経て家臣団の屋敷が増すごとにそれら郭が増設されたものと考えられます、また家臣団の屋敷群は洛外にも存在していました。



                             東の外郭群

                 

 主に兵舎、家臣の屋敷が建ち並んでいました、これら屋敷の家臣達は個々に自らの所領にも住居をかまえ諸政務の為に城に入る時または有事の際にこの屋敷を利用していました。



                              西の外郭群

                 
 
 主郭、諏訪郭の西側の郭群で東外郭群同様兵舎、屋敷群が存在していました、家臣団の居住区である東西の外郭をあわせると相当な規模で城の大半をしめています、戦国中期城主成田氏の家臣は一千余騎にふくれ上がりそれにともないその居住区が拡張増設されたのでしょう。


                                 忍沼



 現在の行田市水城公園(忍沼)は在城当事の面影を留める唯一残された大沼(水濠)です、城主成田氏の屋敷もこの辺りに存在していたとも云われています。




                               大手行田口

                    

 城の東方向で城下集落に通じる虎口が大手門である行田口です、1590年(天正18年)豊臣秀吉に忍城攻めを命じられた石田三成は忍城を包囲して此処から南東2.5kmの丸墓山古墳に本陣をおき佐竹氏、宇都宮氏の軍勢と三成配下の軍勢合わせて7000の兵で此処行田口をかためました、初回の忍城攻撃です。



                                  大宮口

                    

                  東の大手行田口に対して西の大宮口、持田口は搦手口になります。



                             行田口門前の城下集落

                    

               大手である行田口の門前にも家臣団の屋敷が点在して城下集落と成っていました。


                                   行田宿

                    

 行田口前の城下集落の東(現在の行田市駅前交差点付近)は町屋と成っていました、当時の行田口は中山道を鴻巣宿付近で分岐して館林へと向かう街道筋の途中に位地していた事からその門前には宿場が開かれていたのです。

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