1480年(文明12年)太田道灌に長井城を攻められた長尾景春は秩父郡へと逃走、秩父にて数々の伝説を残し日野城(熊倉城)落城を最後に古河公方足利成氏の下へ逃げ去ります、その秩父郡においての逃走伝説を検証してみました。
数々の景春伝説
秩父郡での長尾景春の伝承は異なる形で幾つもあります、長井城落城から熊倉城落城までの過程で秩父郡に語り継がれている伝承の幾つかをあげてみます。
長井城を攻め落とされた景春は熊倉城に籠城、此処も道灌に攻められ黒谷の瑞石寺へ妻子27人と共に逃げ込み生け捕られて自害させられる。
、新編武蔵風土記によれば長尾意玄入道景春は熊倉城に籠城、甲州勢に熊倉城を攻め落とされ黒谷の瑞石寺岩窟で自害する、と記されています。(甲州勢????)
、熊倉城には井戸が無く籠城中に馬の背に白米をかけて水があるように見せかけて谷間の川まで水を汲みに行っていた所を道灌の兵に見つかり水を断たれ落城した。
、埼玉県史によれば景春が秩父郡の倉尾村日野尾城に籠城していた所を道灌に攻め落とされ秩父各地を逃げ回り敵対するのを止め山内上杉顕定に下った、としています。
、長井城を追われた景春は塩沢城に籠城、そこへ道灌の軍勢が城を包囲、薄の地頭小沢左近と小森の地頭嶋村近江守が手勢の兵を引き連れ大谷の沢より夜討を掛けて落城させる、景春は日野の熊倉城へと逃げ込む、逃走途中で景春の家臣深井対馬守がしんがりを勤め石上の切り所で防戦し深手をおって自害する。
数ある景春伝承の中の幾つかを書き込んだのですがこれらの伝承には時代、土地などが混合していたり、後で取って付けた話など実際のところ何が事実なのか定かでは無いのです、ただ最後4番目の塩沢城に夜討を掛けられ日野熊倉城へ逃走した説が近年の研究で最も有力とされています。
事実は裏切りか?塩沢城の戦い
一応4番目の説が有力説と過程して景春の秩父での動向について検証してみましょう。図1を見て下さい、みなさん不可解な事に気づきませんか?そうです、それは塩沢城の位置関係です、図1では塩沢城は小沢、嶋村の館付近、敵勢力のど真ん中に築いた事になります、又塩沢城すもう場(居住区)から四阿屋山を越え薄、小森の中心地、薬師堂脇に抜ける登城ルートがあります、このルートをすもう場からそのまま薬師堂の脇に出ると嶋村近江守の館の真正面に出てしまいます、あくまで嶋村の館が両神の中心地薬師堂付近であるとの説を元にしてでの話ですが城への入り口が敵館の正面に繋がっているなど考えられないことです。
図1
(カシミール3D使用)
嶋村近江守、小沢左近は深夜、大谷の沢より侵入、景春方はまさかの不意打ちを喰らい早々に城を捨て山中へ敗走して行きます、そのまさかです、なぜ嶋村、小沢が夜襲を掛けてきたのか?嶋村近江守、小沢左近は小森、薄の地頭と成っています、奥秩父は白井長尾氏の所領でそれら2名は景春より認められた地頭、要するに長尾景春の家臣でなかったのではないでしょうか?それも、それら2者の管理地に城を築くのですから景春より相当信用された人物達であったのでは??太田道灌の調略に乗って寝がいったか?それとも戦いが不利と思い景春を見限ったのか?この状況から考えて裏切りの可能性は大いにあり得るのではないでしょうか?
景春が逃げ延びた先とは??
嶋村、小沢の両者は大谷沢より侵入した事になっていますが図1を見てもらえば分かる様に大谷沢から塩沢本城へは直接侵入する事は出来ません、尾根を越え更に山頂を越えなくては侵入は出来ないので両名は本城でなく眼下に大谷沢の在るすもう場(居住区)へと突入したのです、寝床を襲われた景春は山中へと逃げ込みます、問題はその先です、定説では景春は熊倉城へと向かい途中、石上の切り所にて景春を逃がすため深井対馬守が防戦して討死したとされていますが本当にそうだったのでしょうか?図2見て下さい、もし熊倉城へ向かったのなら反対方向へ逃走した事に成ります、なお且つ街道を通り熊倉城へ入ったとすれば嶋村、小沢の館の目の前を通らなければなりません、又街道の要所、要所には道灌の兵が多数いたはずで直接熊倉城へ逃げ込んだとは考え難いのではないでしょうか??
図2
(カシミール3D使用)
深井対馬守が防戦した石上の切り所
(尾根を切り落とし街道を通した所謂切り通し)
では景春一行は何処へ向かったのでしょう?景春方の城で石上の切り所から最も近い城、図2を見てもらえばわかる様に日尾城でなかったのではないでしょうか?景春はほとぼりが冷めるまで日尾城に居たか、此処も攻められ落城したのか日尾城から最終的に熊倉城に入り籠城したとは考えられないでしょうか?
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