太田道灌に奥秩父へ追い込
まれた長尾景春の秩父での逃
走劇とその伝説を検証しました。
築城年代 1478年(文明10年)~1480年
享徳の乱勃発から長尾景春逆心まで
1454(享徳3年)鎌倉公方足利成氏が関東管領山ノ内上杉憲忠を鎌倉にて謀殺する事により始まった享徳の大乱に便乗する様に1476年(文明8年)管領家執事職跡目問題に不満を抱いた長尾景春は鉢形城に籠城、管領山ノ内家に反旗をひるがえします、管領家執事職は白井長尾氏、長尾景仲、景信と受け継がれ景信の子である景春は当然自らが次の執事職に任命されると思っていました、しかし管領山ノ内顕定は白井長尾氏の勢いを恐れ景信の弟で景春の叔父、惣社長尾氏、忠景を執事職に任命します、この事に憤慨した景春は鉢形城に籠城し顕定の居る五十子の陣に攻撃をかけ顕定、扇谷上杉定正らを上野国に後退させますが扇谷上杉家の有力家臣太田道灌に鉢形城を攻撃され長井城(埼玉県大里郡妻沼町)に退きました、更に此処も道灌に攻められ秩父へと退却して行ったのです。
景春塩沢城籠城
秩父に追い詰められた景春は秩父各地で転戦し小鹿野町両神の塩沢城に籠城します、景春が奥秩父両神を本拠とした理由は秩父には白井長尾氏の所領があり、近隣の豪族達の力を仮て再起は計ったのです。
1480年(文明12年)太田道灌の軍勢に塩沢城は包囲され小森の地頭嶋村近江守と薄の地頭小沢左近らに夜討沢(大谷の沢)より夜襲をかけられ遇えなく落城、不意打ちを受けた景春は城を捨てて逃走し白久(秩父郡荒川村)の日野城(熊倉城)に逃げ込みました。
16世紀後半の塩沢城
長尾景春が逃走した後の塩沢城に誰が入城したのかは明確ではありませんが時代を越えて小田原北条氏が秩父を制圧していた頃、北条氏邦の家臣、出浦氏が塩沢城に入りました、出浦氏は武田氏の秩父来襲に対して最前線基地である塩沢城に居て奥秩父を守り抜いき氏邦より感状を与えられます。
その後の1590年(天正18年)塩沢城は小田原の役において鉢形城落城後に廃城と成りました。
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