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                         辛垣城


        

辛垣城CG、写真 三田仏教文化


 築城年代 16世紀中頃



 東京都青梅市二俣尾の辛垣城は自称平将門の子孫、三田氏の築城です。
 三田氏は代々関東管領山ノ内上杉氏の重臣を勤め、その所領は本拠地青梅から現在の奥多摩町、高麗郡、入間郡にまでいたり、大凡13000石もの領地を治めていました。




                          辛垣城の築城に至るまで


 1546年(天文15年)川越城撤回作戦で北条氏康に大敗した山ノ内上杉憲政は上野国へ敗走し更に此処も氏康に追われ越後長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃げ去ります、それを期に関東管領山ノ内上杉氏の家臣であった三田氏は北条氏の軍門へ下るのですが1561年(永禄4年)長尾景虎が憲政より関東管領職を譲り受けて北条氏討伐の為、関東へ侵攻すると三田氏党首綱秀は景虎の一軍に参列し反北条の旗を翻しました。
 景虎は小田原城を包囲した後、鎌倉鶴岡八幡にて関東管領就任の参拝を行うのですが、ここで問題発生、北条討伐軍に加わった武州忍城の城主成田長秦は八幡宮の門前で家風の儀礼に従い、馬上にて上杉謙信(長尾景虎)をまっていたのですが、出てきた謙信はそれを見るなり激怒し長秦を馬から引きずり降ろし罵声をあびせます、その事で力を落とした長秦は忍城へ兵を引き上げ帰ってしまい同様に北条討伐軍に参加した千葉氏、大石氏、小山氏、結城氏、毛呂氏らも上杉謙信の人間性を疑い地元へ戻ってしまいました。しかし岩槻城主太田資正と三田綱秀は謙信のもとを離れずに残っていたのです、それは三田氏の反北条氏への意思をはっきりと表したのでした、これ以後三田氏と北条氏は三田氏滅亡まで敵対関係と成ったのでした。


                               辛垣城落城


 さて三田綱秀が何故、北条氏を必要に敵対視したかは今だ謎で北条氏に下った時点で小田原衆所領役帳を見る限り三田氏の旧領は全て安否され、なんら不満が無いはずですが旧主、山ノ内氏に対する思いか?北条家中での立場的な問題か?定かでありません。何れにせよ綱秀は上杉謙信、太田資正などの対北条方の諸氏と連携を取りながら領地の防衛態勢を強化しなければなりません。そこで綱秀は二俣尾に辛垣城と枡型山城の二城を築城します、ただ辛垣城についてはそれ以前に築城された説も有りこの時に大々的な改築がなされたのかもしれません、綱秀は本城の勝沼城を捨て、険しい山城である辛垣城、枡型山城での防戦を決意したのです。
 1563年(永禄6年)北条氏康の命により氏康の三男氏照が三田討伐軍として差し向けられ、氏照は滝山城を出陣し梅ヶ谷峠を通り多摩川を挟んで袖木町で三田軍と対陣します、一方三田軍は辛垣城、枡型山城の麓の海禅寺を前線基地として多摩川対岸にて防戦態勢をとりました。双方軍畑で激しく激戦し、数で勝る氏照方が三田勢を圧倒して三田軍は辛垣城へと後退します。
                                   


   辛垣城から見た軍畑、三田軍の前線基地と成った海禅寺 




 綱秀は辛垣城に籠城し、氏照方はそれを攻撃します、その時、三田氏家臣塚田又八と言う者が何を思ったのか綱秀を裏切り城に火をかけたのです、突然の事に辛垣城は落城し綱秀は幼い子二人を家臣に預け「からかいの南の山の玉手箱、あけてくやしきわが身なりけり」と謎の歌を残して太田資正の岩槻城へ落ちていったのです。
 辛垣城落城の翌年1564年(永禄7年)第二次国府台の合戦で太田、里見の連合軍は北条氏康に大敗して太田資正は岩槻城を追放され、資正を頼り再起をはかった綱秀は岩槻城で切腹し、事実上三田氏は滅亡したのでした。


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