築城年代 16世紀中頃
東京都青梅市二俣尾の辛垣城は自称平将門の子孫、三田氏の築城です。
三田氏は代々関東管領山ノ内上杉氏の重臣を勤め、その所領は本拠地青梅から現在の奥多摩町、高麗郡、入間郡にまでいたり、大凡13000石もの領地を治めていました。
辛垣城落城
さて三田綱秀が何故、北条氏を必要に敵対視したかは今だ謎で北条氏に下った時点で小田原衆所領役帳を見る限り三田氏の旧領は全て安否され、なんら不満が無いはずですが旧主、山ノ内氏に対する思いか?北条家中での立場的な問題か?定かでありません。何れにせよ綱秀は上杉謙信、太田資正などの対北条方の諸氏と連携を取りながら領地の防衛態勢を強化しなければなりません。そこで綱秀は二俣尾に辛垣城と枡型山城の二城を築城します、ただ辛垣城についてはそれ以前に築城された説も有りこの時に大々的な改築がなされたのかもしれません、綱秀は本城の勝沼城を捨て、険しい山城である辛垣城、枡型山城での防戦を決意したのです。
1563年(永禄6年)北条氏康の命により氏康の三男氏照が三田討伐軍として差し向けられ、氏照は滝山城を出陣し梅ヶ谷峠を通り多摩川を挟んで袖木町で三田軍と対陣します、一方三田軍は辛垣城、枡型山城の麓の海禅寺を前線基地として多摩川対岸にて防戦態勢をとりました。双方軍畑で激しく激戦し、数で勝る氏照方が三田勢を圧倒して三田軍は辛垣城へと後退します。
辛垣城から見た軍畑、三田軍の前線基地と成った海禅寺
綱秀は辛垣城に籠城し、氏照方はそれを攻撃します、その時、三田氏家臣塚田又八と言う者が何を思ったのか綱秀を裏切り城に火をかけたのです、突然の事に辛垣城は落城し綱秀は幼い子二人を家臣に預け「からかいの南の山の玉手箱、あけてくやしきわが身なりけり」と謎の歌を残して太田資正の岩槻城へ落ちていったのです。
辛垣城落城の翌年1564年(永禄7年)第二次国府台の合戦で太田、里見の連合軍は北条氏康に大敗して太田資正は岩槻城を追放され、資正を頼り再起をはかった綱秀は岩槻城で切腹し、事実上三田氏は滅亡したのでした。