「江戸名所図会」によれば現在の世田谷区奥沢に在る九品山浄真寺は世田谷城主吉良氏の家臣大平左馬(出羽守)の居城奥沢城であったとしています、吉良氏が世田谷に在住したのは1366年(貞治5年)吉良家治の代で世田谷城を築城後世田谷郷とその近辺の開墾事業を行います、奥沢城もその開墾事業の一環として奥沢の開拓拠点とその地域の領有権の主張を目的として築城されました。
奥沢城の築城
(九品山浄真寺池)
奥沢城が築城されたのは16世紀初め頃で吉良頼康により築城されました、奥沢城周辺は湿地帯に覆われ治水、開拓共に適した土地柄であり奥沢城はその拠点と成っていたのです、また16世紀初頭は長享の乱の最中で吉良氏の本城世田谷城から南へ5km離れた奥沢の地の領有権を主張する目的もあり奥沢城は築城されたと考えられます、天文年間には吉良氏による大々的な世田谷の開拓が行われ重臣大平左馬を奥沢城に配置して開拓の運営を委託します、しかし頼康は北条氏綱の娘を室に迎え吉良氏は既に小田原北条氏に従属し大平氏など吉良氏の重臣達は北条氏の直臣と成っていたのでこの開拓事業の実質的主導権は北条氏にあり奥沢城も北条氏の持ち城でした。
浄真寺に残る悲話
此処旧奥沢城浄真寺には鷺草にまつわる悲話が残っています、「世田谷城主吉良頼康には家臣奥沢城主大平出羽守の娘で常盤姫と言う側室がいて頼康の愛を一身に受けていた為に他の側室達がそれをねたみあらぬ中傷をしたので頼康は常盤を遠ざけた、悲しんだ常盤は実家である奥沢城に居た頃から愛育していた白鷺の脚に遺言を結んで両親の住む奥沢城へ向けて放った、たまたまその方角で狩をしていた頼康が知らずにその白鷺を射落として脚に結んであった遺言を読み急ぎ城へ戻ったが時既に遅かった、その後白鷺が射落とされた場所から一本の草が生え鷺に似た花をつけたと云われています。」鷺草は大正期頃まで奥沢周辺に多数生息し「鷺の谷」と呼ばれる地名が在ったそうです。