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明治のはじめの日本海軍で戦力となる軍艦は佐賀藩より受け継いだ木造艦「日進」1隻のみでした、そこで日本海軍は甲鉄艦「扶桑」、コルベット級艦「金剛」、「比叡」の3隻の装甲艦をイギリスに発注します。扶桑は鉄骨の骨組みに装甲を施した本格的鉄造艦で金剛型コルベットである金剛、比叡は鉄骨の骨組みに木造の船体、その両弦側に装甲を施した従来の装甲艦でした。それら金剛型2隻は1878年、共にイギリスから日本へと送られています。 | ||||
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比叡の規模、機関、装甲 | ||||
比叡は金剛型コルベット艦の2番艦で排水量2250t、全長70mの蒸気機関を備えた3本マストのバーク艦です、この比叡のコルベット艦と言う艦級ですが小型の巡洋艦、砲艦などが位置付けられています。 | ||||
装甲は両弦側の木造船体表面に137mmの錬鉄製装甲が張られています、以前の装甲艦と異なるのは骨組みが木造では無く鉄材の為に船体そのものが非常に強固な造りと成っています。比叡に搭載された蒸気機関はボイラー6基に2段膨張式2気筒レシプロ式機関でスクリュー1基です、それにより最大速力13ノット、最大出力2270hp発揮、当時の軍艦としてはまずまずの性能です。 | ||||
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比叡の主砲、副砲 | ||||
(艦首甲板上に配置された24.3口径17cm砲) | (艦尾甲板上の24.3口径17cm砲) | |||
比叡の主砲はドイツ「クリップ社」製24.3口径17cm後装式砲を艦首と艦尾の甲板上に1門づつの2門ともう1門艦の何処かに配置されていました(配置場所不明)、合計3門であったようです。 | ||||
(左舷側の25.4口径15cm砲) | ||||
副砲は同じクリップ社製25.4口径15cm後装式ライフル砲を両弦側甲板上に3門づつの計6門配置されています、更に76.2mm砲2門、37mm砲4門、対水雷艇用の25mm4連装機関砲4基も配備されていました、当時このクラスの軍艦としては最新装備であったようです。 | ||||
(甲板上から見た25.4口径15cm砲) | ||||
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決死の強行突破戦線離脱 | ||||
コルベット艦比叡の艦歴に少しふれてみましょう、1878年5月金剛型コルベット艦「金剛」、「比叡」が日本に引き渡されます、1882年に朝鮮兵士の反乱である壬午事変が起こると金剛、比叡は朝鮮半島の警備に着きます、1890年にはトルコ海軍の巡洋艦エルトゥールル号が紀伊半島沖で遭難し救出された生存者を金剛、比叡はオスマントルコの首都イスタンブールまで送り届けています。 1894年日清戦争が勃発すると両艦は旅順攻略作戦などに加わり比叡においては黄海海戦にも参戦しています、黄海海戦で比叡は連合艦隊本隊に所属し旗艦松島を先頭に千代田、厳島、橋立に次ぐ5番手を随行します、海戦最中に比叡と後続の「扶桑」が旧式艦故に他の艦に追いつけずに艦隊から離れてしまいます、そこへ清国北洋艦隊が連合艦隊本隊と比叡の間に入り込みます、扶桑はなんとか艦隊に追いつきますが比叡は取り残されました、そこで比叡は敵の艦と艦の間を強行突破、すり抜けに成功、しかしその間の北洋艦隊からの集中砲火で艦は大破しその後戦線を離脱します。 日露海戦で比叡は旅順港などの警備に従事、日露戦争後に測量艦となり1911年に除籍し解体されました。 |
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コルベット艦比叡 | ||||
基準排水量 | 2250t | 兵装 | ||
全長 | 70.5m | 24.3口径17cm砲 | 3門 | |
最大幅 | 12.5m | 25.4口径15cm砲 | 6門 | |
76.2mm砲 | 2門 | |||
機関 | 2段膨張式2気筒レシプロ式機関1軸推進 | 37mm砲 | 4門 | |
最大速力 | 13ノット | 25mm4連装機関砲 | 4基 | |
最大出力 | 2270hp | 35.6cm水上魚雷発射管 | 1基 | |
装甲厚 | 弦側137mm | 1875年起工 | ||
1877年進水 | ||||
1878年就役 | ||||
1911年除籍 | ||||
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