近代の軍艦史 | 軍事、兵器 | TOPページ | ||
黄海海戦 | 日本海海戦 | 記念艦三笠訪問 | ||
三等巡洋艦「千代田」は1888年にイギリスのグラスゴー造船所で起工されます、この千代田の建造には曰くがあり当初日本はフランスに防護巡洋艦「畝傍」3615tを発注していました、しかし完成した畝傍が回航中に行方不明となる事件が発生、日本側は保障金を受け取り今度はイギリスへ巡洋艦を発注、それが千代田でした。当時フランスへ発注した軍艦は故障、事故が多く更に畝傍の遭難事件でとうとう日本海軍はフランスにあいそうをつかして当面の軍艦発注を見合わせたです。 | ||||
|
||||
三等巡洋艦千代田の規模、装甲、機関 | ||||
千代田の規模は排水量2439t、全長は92mと先に発注した畝傍よりいささか小ぶりな船体でした。また他の日本海軍の高速巡洋艦「浪速」、「秋津州」よりも小ぶりな為に就役時に三等巡洋艦に分類されています。 | ||||
千代田の装甲ですが防護巡洋艦の様に船内に張られた装甲では無く船体側面の喫水線部のみ82mmから92mmで張られています、その為装甲巡洋艦に分類される事もありますが装甲が船体側面全体では無く一部分なので装甲帯巡洋艦と称するのが性格な艦種であるそうです。また千代田には84もの防水区画があり限定された装甲箇所を補助する役割をしています。 | ||||
機関は三段膨張3気筒レシプロ機関2基のスクリュー2基で5678hp、速力19ノットと当時の高速巡洋艦としては十分な性能でした。 | ||||
|
||||
千代田の兵装 | ||||
(艦首甲板上に設置された40口径12cm砲) | (艦尾甲板上に設置された40口径12cm砲) | |||
千代田には対艦用の砲としてイギリス「アームストロング社」製の40口径12cm速射砲が艦首、艦尾の甲板上に1門づつ、両弦側甲板上に4門づつの計10門が配置されています、敵艦の装甲を貫くには非力は口径ですが甲板構造物を破砕するのには約に立ちます。 | ||||
(左舷甲板上に配置された12cm砲4門と47mm機関砲3門) | ||||
また対水雷艇用の47mm機関砲が両弦側甲板上、艦首、艦尾の船体側面、マスト上に計14門備えられています。 | ||||
(弦側の交互に配置された12cm砲と47mm機関砲) | (艦首船体側面に配置された47mm機関砲) | |||
弦側は12cm砲の合間に47mm機関砲が配置されています(交互の配置)。 | ||||
(マスト上の47mm機関砲) | (前方に向けられた艦首と左舷前方の12cm砲) | |||
12cm砲においては艦首、及び艦尾方向へ3門づつ、側面へは6門向けられる事になります。 | ||||
(左舷に向けられた12cm砲6門) | ||||
|
||||
千代田の艦歴 | ||||
1891年4月千代田は横浜港で日本へ引き渡されます、日清戦争では黄海海戦などに加わり「松島」を旗艦とする連合艦隊の本隊に所属、松島に次ぐ2番手を航行していました。1900年には義和団事変鎮圧に向かい、日露の海戦では仁川海戦、旅順攻略戦に参加しています、日本海海戦おいては巡洋艦「須磨」、「和泉」、「秋津州」と共に第三艦隊第六戦隊を編制、第二艦隊第四戦隊と共同で「ロシアバルチック艦隊」の後衛艦船の攻撃にあたっています。 第一次大戦ではドイツ帝国の拠点「青島」の攻略に参加し大戦後には潜水母艦へと改装されます、しかし老朽化の為に1927年に豊後水道沖で爆撃訓練の標的艦となり沈没されました。 |
||||
|
||||
基準排水量 | 2439t | 兵装 | ||
全長 | 92m | 40口径12cm砲 | 10門 | |
最大幅 | 13m | 47mm機関砲 | 14門 | |
11mm10連装機銃 | 3基 | |||
機関 | 三段膨張3気筒レシプロ機関2基2軸推進 | 35.6mm魚雷発射管 | 3基 | |
最大速力 | 19ノット | |||
最大出力 | 5678hp | 1888年12月起工 | ||
1890年6月進水 | ||||
装甲厚 | 1891年1月就役 | |||
弦側喫水線部 | 82mm~92mm | 1927年沈没 | ||
甲板部 | 30mm~35mm | |||
|
||||
近代の軍艦史 | 軍事、兵器 | TOPページ | ||
黄海海戦 | 日本海海戦 | 記念艦三笠訪問 | ||