宇都宮宿で奥州街道と分かれた日光街道は国道119線と略同じ道筋で上戸祭村、野沢村を通り徳次郎宿へと向かいます、宇都宮宿から徳次郎宿までは大凡二里十三町(9.3km)あり箇所ケ所で並木道に成っています。 | ||||||||||||||||
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高尾神社と妙吉塚 | ||||||||||||||||
(妙吉塚) | ||||||||||||||||
日光街道筋は松原3丁目の交差点で国道119号線と合流します、交差点から北上して上戸祭町の十字路を過ぎて400m程先の左に曲がる細い路地に入ると高尾神社が在り、その敷地内に妙吉塚が造られています、妙吉塚とは南北朝時代の僧である妙吉の墓と伝承されています、当時、将軍足利尊氏の弟「足利直義」は足利家重臣「高師直」と対立関係で足利直義の信任を受けていた妙吉は高師直から逃れて京都を出てこの地で没したと云います。 | ||||||||||||||||
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桜並木の道筋 | ||||||||||||||||
国道119号線(日光街道筋)に戻り県道3号線との交差路を過ぎた辺りから桜並木の道筋となっています。 | ||||||||||||||||
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上戸祭の一里塚 | ||||||||||||||||
桜並木を過ぎると国道は掘割状の道となり両脇に並木が植えられています、その堀割状の並木道を数百m進むと上戸祭の一里塚が道の両側に見えます。 | ||||||||||||||||
(街道筋左側の塚) | ||||||||||||||||
上戸祭一里塚は江戸から数えて28番目の塚で丁度「宇都宮宿」と徳次郎宿の中間に位地しています、塚は並木の外側に造られていました。 | ||||||||||||||||
(街道筋右側の塚) | ||||||||||||||||
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野沢村 | ||||||||||||||||
(掘割状の並木道) | ||||||||||||||||
掘割状の並木道は更に続きます、上戸祭の一里塚から1km先の釜川に架かる弁天橋を渡ると野沢村でした。 | ||||||||||||||||
野沢村は江戸期の頃には幕領で宇都宮宿と徳次郎宿の間の宿であり、宿入口付近には1軒の立場茶屋が設けられていました。 | ||||||||||||||||
(野沢村) | ||||||||||||||||
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光明寺 | ||||||||||||||||
弁天橋から更に国道119号線(日光街道筋)を700m程進むと左に光明寺の山門が建っています、光明寺は当初、文禄年間(1592年~1596年)に玉塔院として建立されましたが1660年(万治3年)に消失、1671年(寛文11年)光明寺と改名され再建されました、その後、徳川将軍の日光参拝時の休息所となっています。 | ||||||||||||||||
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高谷林の一里塚 | ||||||||||||||||
(光明寺から先の並木道) | ||||||||||||||||
光明寺から先、また並木道が続きます、並木道をを1km半進んだ所に高谷の一里塚があります、高谷の一里塚は江戸から29番目の塚です、この一里塚から先で下徳次郎に入ります。 | ||||||||||||||||
(左側の一里塚) | (右側の一里塚) | |||||||||||||||
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大谷道の道標 | ||||||||||||||||
東北自動車道の高架をくぐり500m程進んだ所の山王団地入口丁字路はかつて大谷道(大谷観音参拝道)と日光街道筋の追分と成っていました。 | ||||||||||||||||
現在、大谷道は廃道となりその道標のみ丁字路の脇に保存されています。 |
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徳次郎城跡 | ||||||||||||||||
大谷道の追分から800m程進んだ所に右へ曲がる細い路地が国道へ通じてます、その路地を曲がり200m程進むと中世の城郭「徳次郎城」の跡です、徳次郎城は宇都宮城の出城で16世紀後半頃に宇都宮氏の家臣、新田徳次郎により築城されました、この辺りを徳次郎と呼ぶのはその新田徳次郎の名からきています。 | ||||||||||||||||
(田川の段丘側の堀) | ||||||||||||||||
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中徳次郎 | ||||||||||||||||
国道へ戻り200m程進むと徳次郎の交差点です、此処から先が中徳次郎です、中徳次郎にはこの辺りから採掘される大谷石で造られた蔵や家屋が幾つも点在しています。 徳次郎宿は上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎の三宿からなる宿場でそれに周辺の門前村、田中村、西根村を加えて徳次郎六郷と呼んでいました、1843年(天保14年)には人口653人、家屋168軒、本陣2軒、仮本陣1軒、脇本陣3軒、仮脇本陣1軒、旅館72軒でした。 |
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智賀都神社 | ||||||||||||||||
街道の東側に徳次郎六郷の鎮守、智賀都神社が見えてきます、智賀都神社の始まりは778年(宝亀9年)と云います、鳥居の後の二本一対ケヤキは樹齢700年で高さ40mもあります。 智賀都神社の東側には二ノ宮尊徳の設計の田川から引水した灌漑用水、宝木用水が流れています。 |
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上徳次郎宿、六本木の一里塚 | ||||||||||||||||
(大綱町入口道標) | (六本木の一里塚) | |||||||||||||||
智賀都神社から1km半程先に「宇都宮市大綱町入口」と刻まれた道標が立っています、この辺りから上徳次郎宿でした、道標から更に500m程進むと江戸から30番目の一里塚の六本木の一里塚です、この六本木一里塚の付近が徳次郎宿の出口です。 | ||||||||||||||||
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日光街道 | ||||||||||||||||
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