宇都宮宿は日光街道、奥州街道筋の17番目の宿場町で宇都宮城の城下町でもあり更に「二荒山神社」の門前町でありました、また奥州街道と日光街道の追分で大いに賑わったとされています、1844年(天保15年)の記録によれば人口15500人、家屋1693軒、本陣2軒、脇本陣が1軒、旅館42軒で江戸初期の町並が32町(3200m)であったのが幕末には48町(4500m)まで人口が増加しています、宿内には遊郭や造り酒屋などもあり日光街道、奥州街道きっての歓楽街でもありました。 | ||||||||||||||||
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不動前の不動尊 | ||||||||||||||||
日光街道筋(国道4号線)は西原のY字路で国道4号線から離れ、国道119号線と同じ道筋を北上していました、その先の不動前の交差点で国道119号線からも分かれて不動前通り沿いに宇都宮も宿内へと向かいます、此処不動前の交差点は江戸期以前には日光へ向かう街道筋(不動前通り)と旧奥州街道(鎌倉街道中道、国道119号線)の追分でした、交差点の目立つ位置に不動堂が建立されています、江戸初期の頃に宇都宮城主、本多正純は宇都宮宿の整備にあたりこの追分を北へと移動させ日光街道と奥州街道をつけかえさせました、不動堂の脇には1928年(昭和3年)に置かれた道標が立っています、道標には「右奥州、日光街道、左裁判所、正面東京に至る」と刻まれています。 | ||||||||||||||||
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蒲生君平勅旌の碑 | ||||||||||||||||
不動前通りを北上して東武宇都宮線の高架を潜った先に蒲生君平勅旌の碑が立てられています、蒲生君平は江戸後期の儒学者、尊王論者で明治天皇がその功績を称えと云います、其れにより当時、宇都宮藩知事(元宇都宮藩主)戸田忠友が蒲生君平が生誕したこの土地に碑を建立したのです。 この辺り南新町と称して宇都宮宿の南口でした。 |
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台陽寺 | ||||||||||||||||
(台陽寺南の大ケヤキ) | ||||||||||||||||
200m程日光街道筋を進むと左側に1605年(慶長10年)に開基された台陽寺の参門が見えます、その南側には大ケヤキが有り周辺には地蔵寺、大慈院など寺院が密集していました。 | ||||||||||||||||
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熱木不動尊 | ||||||||||||||||
(熱木町の町並) | ||||||||||||||||
台陽寺から北上して次の交差点を渡った先の熱木不動尊は宇都宮氏の祖「藤原宗円」が1059年(康平2年)、前九年の役に際して多気山頂上に陣を張ったとされ、時に戦勝を祈願して3体の木造の不動尊を彫ったと云います、その内の一体が此処熱木不動尊です。 熱木不動尊から先が熱木町です。 |
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蓬莱町、大黒町 | ||||||||||||||||
(蓬莱町、大黒町) | ||||||||||||||||
熱木町を過ぎると通りの右側が大黒町、左側が蓬莱町でした、大黒町には木賃宿、旅籠が建ち並び夜間も灯りがともされ賑わいを見せていました。 | ||||||||||||||||
(蓬莱町) | (大黒町) | |||||||||||||||
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足軽長屋街 | ||||||||||||||||
ここでちょと蓬莱町の裏手を見てみましょう、蓬莱町の入口付近の西側裏手は足軽の居住区で長屋が建ち並んでいました。 | ||||||||||||||||
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蓬莱町西側裏手の寺院 | ||||||||||||||||
(一向寺) | ||||||||||||||||
長屋街の北側には長楽寺(現在廃寺)、続いて1276年(建治2年)に宇都宮景綱が開基した一向寺が建っていました。その路地を隔てた更に北側が茅葺の山門の報恩寺です、報恩寺は戊辰戦争で本堂が消失しましたがこの山門は戦火を逃れています。 | ||||||||||||||||
(報恩寺) | ||||||||||||||||
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鍵の手状の道筋 | ||||||||||||||||
蓬莱町、大黒町とその先の材木町との境目、丁度現在のもみじ通りとの交差路は道が左方向へ屈曲した鍵の手状の路地に成っていました、この鍵の手の路地には柵、木戸が設けられ枡形をないしていました。 | ||||||||||||||||
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材木町 | ||||||||||||||||
鍵の手状の路地から先は材木町で宇都宮藩御用達の材木問屋が軒を連ねていました。 | ||||||||||||||||
(材木町裏手の武家屋敷) | ||||||||||||||||
大黒町から材木町にかけての東側裏手は家臣団の居住区で武家屋敷が建ち並んでいました。 | ||||||||||||||||
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宇都宮城 | ||||||||||||||||
宇都宮城は日光、奥州街道筋の東に位地する城郭で宇都宮氏の祖、藤原宗円により平安末期に築城されたと云われています、1597年(慶長2年)豊臣秀吉により「宇都宮国綱」が宇都宮城主を解任され宇都宮氏は終焉します、江戸期になり本多正純が城主に任命されと宇都宮城の大改築が行われ関東七名城の一つに数えられる程の大城郭となりました。 | ||||||||||||||||
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新石町の曲がり角 | ||||||||||||||||
材木町を進むとその先で街道筋は東方向へ屈曲していました、現在の国道119号線との交差路の裁判所前信号付近です、この曲がり角から先が新石町です。 | ||||||||||||||||
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奥州街道と日光街道の追分 | ||||||||||||||||
曲がり角から新石町を100m程東へ進むと細い路地が国道119号線(日光、奥州街道)に通じて北方向へとのびています、この細い路地が日光街道で此処は奥州街道と日光街道の追分でした。奥州街道はそのまま直進しています。 | ||||||||||||||||
(追分近くの日光街道筋) | ||||||||||||||||
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上野本陣と問屋場、貫目改所 | ||||||||||||||||
(上野本陣) | (問屋場) | |||||||||||||||
追分から分かれる日光街道筋の直ぐ隣が宇都宮宿の一つ目本陣である上野本陣です、もう一つの本陣「石塚本陣」は此処より400m程東に位地していました。上野本陣の正面が問屋場です、問屋場は伝馬で運ぶ荷物の運賃は決める「貫目改所」も兼任していました。 | ||||||||||||||||
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伝馬町 | ||||||||||||||||
ここで少し奥州街道沿いに東方向へ進んでみます、 上野本陣と問屋場から東が伝馬町(奥州街道筋)です、問屋場がおかれている事から伝馬町と呼ばれていました、この伝馬町は一般向けの旅館街で宇都宮宿内で最も賑わった場所です。 | ||||||||||||||||
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二荒山神社 | ||||||||||||||||
伝馬町から更に東へ進むと宇都宮二荒山神社の大鳥居が左に建っています、宇都宮二荒山神社は崇神天皇の皇氏で東国を治めた豊城入彦命を祭神として祀り、この宇都宮二荒山神社と日光二荒山神社が二荒山神社の古社として知られています。社殿は戊辰戦争の砲撃で消失し1877年(明治10年)に再建されました。源頼朝や徳川家康など名高い武将達が戦勝祈願に訪れていたと云います。 | ||||||||||||||||
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日光街道 | ||||||||||||||||
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