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中山道妻籠宿三軒長屋 | ||||
建築年代 19世紀初頭 | ||||
旧中山道妻籠宿(現在の長野県木曽郡南木曽町)は現在文化庁により「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され江戸時代の宿場そのままの状態の町並みとなっています、妻籠宿北口には江戸期の庶民の家屋である長屋が現存しています、現状三軒長屋の中央の棟を二階建住居として左右の棟は当時の状況を残しています。 | ||||
(江戸期の長屋イメージ) | ||||
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妻籠宿下嵯峨屋 | ||||
建築年代 18世紀中頃 | ||||
石置き屋根の下嵯峨屋は江戸期中頃の席茶屋でした、この下嵯峨屋は枡型の内に建てられています。 | ||||
(枡型) | ||||
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妻籠宿上嵯峨屋 | ||||
建築年代 18世紀中頃 | ||||
上嵯峨屋は下嵯峨屋と同じく石置き屋根で当時の庶民の格安旅館である木賃宿でした、木賃宿とは略寝泊りするだけの宿で風呂などは無く食事も持ち込みもしくは外ですませるかわりに格安で宿泊できる施設です。 | ||||
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妻籠宿寺下厩 | ||||
建築年代 江戸期中頃 | ||||
上嵯峨屋の2軒隣には厩も現存しています、この厩は旅人達が宿泊中に馬を預けていたのでしょう、所謂「駐車場」 | ||||
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一石栃の立場茶屋(牧野家住宅) | ||||
建築年代 江戸期中頃 | ||||
妻籠宿から馬籠峠へ向かう手前に番所が設けられていました、その番所の出口に七軒の立場茶屋が並んでいました、現在その内一軒の「牧野家住宅」のみ現存しています。 | ||||
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旧中山家住宅 | ||||
建築年代 1674年 | ||||
茨城県古河市の古河総合公園内に移築された住居で元は同県の岩井市に建てられていました、猿島地方によく見られる「直屋」と言う大農家の家屋です、旧家主の中山家は武士の家柄でしたが江戸期に帰農して現岩井市の旧辺田村に移住し代々組頭を勤めています。 | ||||
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旧飛田家住宅 | ||||
建築年代 18世紀前半 | ||||
古河総合公園内にはもう一棟の移築家屋があります、旧飛田家住宅で茨城県久慈郡より移築されました、母屋からL字に屈曲した「土間」兼用の厩が設けられた「曲り屋」です、東北南部地方の伝統家屋文化が久慈地方にも影響していたのでしょう。 | ||||
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八王子千人同心組頭屋敷 | ||||
建築年代 江戸期中頃 | ||||
東京都八王子市追分町から「東京都立小金井公園江戸東京たてもの園」へ移築された同心組頭屋敷です、八王子千人同心とは江戸初期に幕府の命で甲斐武田氏の旧臣により組織された旗本集団です、屋敷の規模は周辺農家とかわりませんが式台付きの接客口などは武家屋敷の格式の高さがみられます。 | ||||
(接客口、 縁側兼外廊下、) | ||||
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綱島家住宅 | ||||
建築年代 江戸中期 | ||||
江戸東京たてもの園には江戸中期の農家である綱島家住宅も移築されています、東京都世田谷区岡本に建てられていた広間型の住居です、この住宅が造られた江戸中期には幾つかの好景気を経て江戸の庶民生活は豊になり江戸周辺の一般農家にもその恩恵がいきわたります、当時建築された綱島家住宅には障子貼りの引戸、縁側、畳敷きの座敷、大黒柱などそれ以前の一般農家には見られなかった居住機能が幾つかほどこされています。 | ||||
(障子貼りの引戸、 広間の大黒柱、) | ||||
耐震性を考慮して大黒柱が土間と広間の間に設けられています。 | ||||
(畳敷きの座敷、 縁側、) | ||||
平安期には国内で既に現在のような畳が生産されていましたが庶民には高価なものでした、江戸期中頃には綱島家のように座敷に畳を敷く農家などが建てられています。 この時代には一般農家にも縁側が設置され生活空間にゆとりが見られる様になりました。 |
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