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                             岩槻城



          


岩槻城CG、写真1岩槻城CG、写真2   岩槻城下 (鎌倉街道岩槻宿)



所在地 埼玉県岩槻市太田


 古河公方足利成氏と関東管領山ノ内上杉氏が争った享徳の乱の最中、1457年(長禄元年)成氏方の関宿城、騎西城と対陣すべく太田道灌により岩槻城は築かれました、岩槻城が築城されたその年、敗退つづく管領方の反撃が開始されたのです。



                            岩槻太田氏成立 

 道灌により築城された深谷、岩槻、江戸城はそれまで縦横無尽に関東で戦いを展開してきた成氏の強大な壁と成り、戦いの状況は管領山ノ内上杉氏とその身内で有る扇谷上杉氏方が徐々に優勢に成り、そしてついに1482年(文明14年)室町幕府将軍足利義政と古河公方成氏が和睦、享徳の乱が終焉します、しかし事態は意外な方向へ展開、享徳の乱で最大の功績があった太田道灌が管領山ノ内上杉顕定の中称で道灌の主君扇谷上杉定正により相模国の糟屋にて殺害される事件が起きます、その後、管領山ノ内家と扇谷家は分裂し長享の乱となりました、扇谷上杉定正は以前に敵対関係であった足利成氏と組、山ノ内上杉顕定は太田氏と手を結びます。道灌無き後の太田氏は図書助資忠が家督を継ぐはずでしたが早世したため道灌の甥である資家が岩槻城主に成り、実子であったのかは定かで無いのですが太田資康が江戸城代(実質的には城主)と成り、岩槻太田氏、江戸太田氏が成立したのです。



                            岩槻太田氏の衰退

 岩槻太田氏2代目資頼の時代に成ると小田原北条氏が武蔵国にその勢力を延ばします、北条氏綱は江戸城を占領し岩槻城も一時氏綱に占領され資頼は埼玉県北本市に在る石戸城へ後退しますが後に岩槻城を撤回します。3代目太田資正(太田三楽斎)は一環して反北条の姿勢を変えず、主君山ノ内上杉氏を立て北条氏との戦いに生涯費やすです、1546年(天文15年)河越夜戦では兄資時と敵味方に分かれ上杉方として北条軍と戦い1561年(永禄4年)には長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻、鶴岡八幡関東管領就任参拝に従軍しその期に武州松山城を落城させ上杉憲勝を城主として添えます、この時期、岩槻太田氏は最盛期を向かえその勢力範囲は足立郡から比企郡、更には豊島、新座郡にまで及びました。
 1564年(永禄7年)江戸太田康資は房州里見義弘と組んで対小田原北条氏の軍事行動を起こし、そこへ太田資正も加わり北条と里見、太田の双方下総国府台で激突します、第2次国府台の合戦です、当初合戦は太田、里見の連合軍が有利に展開していましたが結果は北条氏の圧勝に終わり太田康資は里見を頼みに安房国へ逃げ去り、資正は息子氏資に北条との和解の為に岩槻城を追放され忍城の成田氏に身を寄せました、その後1567年(永禄10年)氏資が討死、岩槻城は事実上北条氏の持城と成り岩槻太田氏は終演を向かえたのです。


                            太田氏無き後の岩槻城

 北条氏の城となった岩槻城ですが1590年(天正18年)豊臣秀吉の小田原攻めの時に落城しました。成田氏を頼った太田資正は常陸の佐竹義重の重臣と成り豊臣秀吉に内通するなど岩槻城復帰を願いますが小田原攻めの翌年、天正19年に思い叶わず70才でこの世を去ります。
 さて北条氏が滅亡した後の岩槻城ですが関東に入府した徳川家の譜代の藩である岩槻藩の城として高力氏が入り、その後、城主が数回入れ替わり幕末を向かえて大政奉還後の廃藩置県により岩槻藩は岩槻県に変わります、岩槻城は一時、岩槻県庁舎として利用されましたが1871年(明治4年)廃城(廃庁舎か?)となりました。

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