新郭
新郭は本郭のある北の郭群から見て沼地を挟んだ南方向に位地する所謂出丸です、その築造時期については戦国末期に西国豊臣氏と緊張が高まる中で岩槻城の守りを固める為に小田原北条氏により増設されと考えられています。
新郭側の郭群は大まか新郭と鍛冶郭の二つの郭で構成されています。
新郭と北の郭群を阻む沼地
新郭側の郭群と本郭を中心とした北側の郭群の間は湿地帯で北の郭群の外周をぐるりと囲み外堀の役割をしていました。
二重の土塁
新郭の西面は二重の土塁と成っていました(現在の市民球場のレフト側の裏手)。
岩槻城搦手門
新郭が存在した城址公園内に岩槻城の裏門が移築保存されています、何処の虎口かは分かりませんが1770年(明和7年)建立、1823年(文政6年)修復となっています。
鍛冶郭
鍛冶郭は新郭の東に隣接する郭で新郭との間は障子堀で仕切られていました。
(鍛冶郭の沼に架かる八ッ橋と東の虎口に架かる道灌橋)
障子堀
鍛冶郭と新郭は障子堀で仕切られていました、現状を見る限りこの空堀は鍛冶郭から新郭南の虎口へ抜ける道筋と成っています、元々は堀底道であった空堀を小田原北条氏により防御の強化を目的として障子堀に改築されたのでしょう。
鍛冶郭、南虎口前の馬出郭
新郭と鍛冶郭の南の虎口前には馬出が設けられていました。
元荒川の流れ
北の郭群と新郭の東を元荒川が流れています、江戸期に入間川(現在の荒川)へ荒川本流が付け替えられる以前元荒川は現在よりも水量が多く岩槻城の水堀である沼地の水源で東端の防御でありました。
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