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旧街道筋は岩槻城下へ向かいます、此処岩槻では川口大門で分岐した旧岩槻道と日光御成道が合流していました、岩槻の町は1457年(長禄元年)享徳の大乱の最中に太田道真、資長(道灌)によって築城された岩槻城の城下町です、日光御成道から城下に入ると市宿、久保宿、渋江宿と連なりこれら町名は15世紀後半の文献に記載されている事から川口大門から岩槻に至る御成道側の道筋が中世の奥州街道で所謂鎌倉街道本道であったと考えられます。 |
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加倉口と大構 |
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御成道からは加倉口(加倉町、本町の境付近)より城下へ入ります、岩槻城とその城下は小田原北条氏により築かれた大構という巨大な掘と土塁によって囲まれていました。 |
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愛国神社の大構址 |
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現在愛国町の愛国社に大構の址が残っています、高さ6m程でしょうか?土塁は8kmに及び城と城下集落を囲っていました、1580年代小田原北条氏は豊臣政権との対立から緊迫状態が高まる中此処岩槻地を戦略的重要地と捉えて兵糧、武器など必要品を確保する為巨大な土塁を築き城と町場一体化して長期戦に備えたのです。 |
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市宿町 |
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加倉口を抜けると市宿町と成ります、市宿町は岩槻城下の町屋の中心でさまざまな業種の商家が建ち並び戦国期以来の毎月6回6と1の日に六斎市が開かれ特産物の岩槻綿の取引などで大いに賑わっていました。 |
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市街地を流れる用水路 |
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江戸期には岩槻城下いたる所に生活用水路が完備されていました、岩槻城下は水道設備の整った町であったのです。 |
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久保宿口木戸 |
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岩槻城下には町屋、武家地などの各町場の堺に木戸が設けられていました。 |
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久保宿町 |
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御成道筋を市宿町から大手方面に向かって進み木戸を抜けると久保宿町に入ります、此処も又町屋を形成し商家が建ち並んでました。 |
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岩槻本陣 |
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久保宿木戸を抜けた直ぐ脇に本陣が置かれその並びには大永年間(1521年~1528年)に開山された願生寺があります。 |
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岩槻藩遷喬館 |
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久保宿町東の横町(現在の図書館、公民館付近)に遷喬館という岩槻藩の藩塾が在りました、遷喬館は1799年(寛政11年)岩槻藩の学者児玉南柯により藩の青少年教育の為に開かれた私塾です。 |
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渋江町 |
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久保宿町の先は渋江町と成ります、渋江町は所謂大手町で家臣団の屋敷群が軒を連ねていた所です、日光御成道と旧岩槻道は此処渋江町で合流していました。 |
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大龍寺 |
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渋江町には曹洞宗の開僧「道元」により開山された大龍寺が御成道沿いに建っています。 |
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時の鐘 |
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岩槻のシンボル時の鐘です、1671年(寛文11年)岩槻城主阿部正春により城内、城下へ時を告げる為に渋江町東端の渋江口付近に創設されました、新編武蔵風土記稿によれば鐘は一日12回撞かれたようです。 |
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浄安寺 |
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合流した御成道と岩槻街道は岩槻城を北西へと迂回して田中口より城下を抜けていました、途中田中口へ向かう右手に浄安寺の参道が街道筋まで延びています、浄安寺は京都東山知恩寺の末寺で元は真言宗の寺でしたが1505年(永正2年)了間上人により浄土真宗へと改宗されました、真言宗以前は渋江寺と呼ばれ武蔵七党の野与党の菩提寺であったとも云われています。 |
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鎌倉街道中道 |
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