(多摩川二子の渡場付近) | ||||||||||||||||||||
鎌倉街道中道本道は横浜市旭区白根町から恩田川、鶴見川越えて都筑区川和町に向かい青葉区荏田町を通り多摩川の二子の渡し場に延びていました、この辺り中道と旧大山道が交差、平行する道筋と成っています、江戸期に大山道が開通するにあたり鎌倉街道中道は往来も少なく成り廃道化し大山道が主要街道と成ったのです。 | ||||||||||||||||||||
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川和宿 | ||||||||||||||||||||
恩田川、鶴見川の両河川を越えると川和町に入ります、鶴見川の河川沿いには川和の宿が設けられていました、川和宿付近の中道本道は鶴見川の両岸を通っていました。 | ||||||||||||||||||||
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河輪八幡神社 | ||||||||||||||||||||
宿の中ほどに河輪八幡神社が在ります、この辺りが宿の中心であったのでしょう、参道は街道筋へつながっています。 | ||||||||||||||||||||
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宿内を抜ける街道と庚申塔 | ||||||||||||||||||||
江戸期に八王子往還道の宿所であった川和の宿では毎年暮れに都筑郡最大の市が開かれていたそうです。 宿の北には庚申塔が立っています、大凡この付近が宿の外れであったと考えられます。 |
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荏田真福寺 | ||||||||||||||||||||
(真福寺本堂、 真福寺から見た荏田宿) | ||||||||||||||||||||
鎌倉街道中道本道は此処真福寺の東側を通っていました、横浜市青葉区荏田町は江戸期に大山道の宿場でこの辺り中道と大山道が合流していたのです。 真福字寺には県重要文化財の千手観音立像と国重要文化財の釈迦如来立像が安置されています。 |
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荏田宿内の庚申塚址 | ||||||||||||||||||||
旧街道筋によく見られる庚申塚は中国の道教に由来するもので江戸期の初め頃全国的に広まり街道の村や宿所の入り口などに多く建てられました、付近の女性達が60日ごとの庚申の日に集まり不眠で疫病、厄払いを祈願していたそうです。 | ||||||||||||||||||||
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宅地整備された中川町の中道街道筋 | ||||||||||||||||||||
荏田から都筑区中川町に入ると中道本道は尾根上に通されていました、現状街道筋は宅地化に伴い一直線整備された状態に成っています。 | ||||||||||||||||||||
(街道脇の不動尊と泉) | ||||||||||||||||||||
中川町の街道脇には不動尊が祭られその下手には不動尊の滝と呼ばれる泉が在ります、泉の水は干害の時も絶えた事が無いそうです。 | ||||||||||||||||||||
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血流坂 | ||||||||||||||||||||
中道本道は中川町から川崎宮前区鷺沼に向かい途中の牛久保町とあゆみが丘の境を街道筋が通っていました、その昔都筑郡と橘樹郡の郡境であるこの付近の坂道を血流坂と呼んでいたのです、その坂道の高所に処刑場が在り処刑人の血が坂道へ流れ出た為に血流坂と呼ばれるそうになったそうです。 | ||||||||||||||||||||
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多摩川 | ||||||||||||||||||||
中道街道筋は鷺沼から溝口を経由して二子の渡し場へ向かい多摩川を渡って東京23区内へ入ります。 | ||||||||||||||||||||
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二子の宿場 | ||||||||||||||||||||
渡し場の宿所である二子宿は江戸期に大山道の宿場でもありました、此処もまた鎌倉街道中道と大山道が合流していたのです、新編武蔵風土記稿に「稲毛用水の岸に古奥州道の跡なりといふ小径ありこの道は何の頃廃せしや詳ならず、今の相州街道ひらけて後、自づから往来もまれになって、ついに廃するに至りしなるべし」とあり新編武蔵風土記稿が編集された江戸期後半には大山道が主要街道となり鎌倉街道中道は廃道化していたのがわかります。 | ||||||||||||||||||||
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二子の渡場 | ||||||||||||||||||||
此処二子の渡し場は古代律令体制下の時代からすでに存在していました、平安期に書かれた延喜式によれば船を常時3隻備えていたとあります。 | ||||||||||||||||||||
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兵庫島 | ||||||||||||||||||||
二子の渡し場の対岸、野川と多摩川の合流する所に兵庫島公園が在ります、室町初期の南北朝騒乱期に南朝方の新田義貞の遺児義興は義貞の死後武蔵国内でゲリラ戦を展開していました、北朝方の畠山国清は武蔵七党の江戸遠江守と竹沢右京亮に義興の暗殺を命じ遠江守と右京亮は義興方にねがえると見せかけて此処より9km程川下の矢口の渡し場へ義興を誘い出し船上で義興を謀殺します、時に義興の家臣由良兵庫助は刀で首をかき切り川に落ちて死にその死体が此処へ流れ着いた事から兵庫島と呼ばれるようになったそうです。 | ||||||||||||||||||||
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鎌倉街道中道 | ||||||||||||||||||||
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(世田谷宿) (品川宿) | ||||||||||||||||||||
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