(旧奥州道、日光街道栗橋)
幸手宿を過ぎると旧奥州道(日光街道)筋は国道4号線沿いに行幸湖(権現堂湖)の西側を通って栗橋宿へ通じていました、旧鎌倉街道筋は権現堂湖南部で日光街道と分岐して湖の対岸の茨城県猿島郡五露町元栗橋を抜け利根川を渡り古河方面へ向とかっていたのです、五露町元栗橋は中世期の栗橋宿でした。
権現堂堤と巡礼の碑
(権現堂堤と巡礼母娘の碑)
権現堂湖は江戸初期に利根川と江戸川の水運連絡用に川幅が拡張された河川で昭和初期まで利根川の本流でしたが現在は廃川と成っています、拡張工事にともない堤が築かれその堤が大雨などで決壊すると江戸は洪水に成ると云われていました。
1803年(享和2年)長雨により利根川は決壊し地元民は土手の修復を行いますが濁流で難工事と成っていました、そこへ通りかかった巡礼母娘が自ら人柱を申し出て濁流に身を投げるとたちまち洪水はおさまったとされその供養碑が堤上に建てられています、しかし実際は難工事を見かねた巡礼母娘が工事は無駄だと言ったところ人夫達が激怒して母娘を濁流に投げ込んだとも伝えられています。
権現堂川
旧奥州道(日光街道)は権現堂川の西側を通っていました。
徳川家康の命により1594年(文禄3年)会の川締め切りで始まった利根川東遷事業(利根川付け替え事業)の一環として利根川と渡良瀬川を合流させる為(中世期、利根川、渡良瀬川は分かれていた)に新川通の開削が行われます、それと同時に権現堂川の拡張工事がなされ利根川、渡良瀬川の流路は江戸川を経由して江戸湾につながり新たな水運路が確保されました。
権現堂川を往来する廻船
新川流路が開削されると廻船がひんぱん権現堂川を往来し廻船問屋が河川沿いに点在するように成りました、また中世期に古利根川を武蔵国、下総国の国境としていましたが権現堂川が利根川本流と成ると権現堂川が両国の国境に定められたのです。
利根川から権現堂川に入る廻船
関東北部から商品を積んだ廻船が利根川、渡良瀬川を通り現川妻給排水機場付近で権現堂川に入り江戸川経由で江戸へ向かっていました、また新たに赤堀川(利根川東遷事業により利根川、江戸川、常陸川を結ぶ為に開削された新川流路、権現堂川河口から千葉県野田関宿町の間の現利根川)の開削により利根川、渡良瀬川から江戸湾、太平洋、または太平洋から江戸湾へ大型船で直に行ける水運路が開かれたのです。
行幸堤
1876年(明治9年)明治天皇が東北巡幸の際に立ち寄った事から権現堂堤の一区画を行幸堤と呼んでいます、現在桜の名所として知られ一部国道4号線が堤の上を通っています。
行幸堤(権現堂堤)の下手を通る街道筋
旧奥州道(日光街道)は堤の西側下手を堤に沿って延びていました、ちなみに旧鎌倉街道筋は日光街道筋から見て権現堂川の対岸を日光街道と平行して古河方面へと延びていたのです。
栗橋宿
行幸堤から先旧奥州道(日光街道)は現国道4号線沿いを通り利根川の堤防付近から栗橋宿へと入ります、栗橋の商店街には旧街道時代を思わせる古い商家の家々が今も残っています。
(栗橋の商店街に残る旧商家)
静御前の墓
JR栗橋駅前に源義経の愛妾静御前の墓が在ります、兄頼朝と不和と成った義経は奥州平泉へと向かいます、静御前は義経を慕い後を追いますが義経の死を知り尼となり1189年(文治5年)この地で生涯を終えました。
八坂神社前の曲がり道
街道筋は宿北端の八坂神社前で大凡北東方向へ曲がり利根川の堤を越えて渡し場へ向かっていました。
八坂神社脇の庚申塚
八坂神社脇に街道の道しるべと成っていたのでしょうか?庚申塚が在ります。
利根川の渡し場と関所
利根川の渡し場には関所が設けられ通行人は関所を通り渡し場へと向かっていました、現在関所址の碑が近くの利根川橋入り口に建っています。
利根川と渡良瀬川
利根川は中世期の頃には現在のような渡良瀬川と合流し太平洋へそそぐ流路でわなく此処より数キロ上流の大利根町佐波、羽生市川保から南下して元荒川と合流し更に太日川(渡良瀬川流路の江戸川)とも合流して江戸湾に繋がっていました、江戸期の初頭から行われた利根川東遷事業により新川流路が開削され上流の旧流路が締め切られる事により現在の流れと成ったのです、栗橋に見る渡良瀬川と合流する利根川は新流路で所謂人口の河川、運河です。
利根川東遷事業について
利根川に設けられた突堤
利根川と権現堂川が分流する手前には突堤が設置されていました、東遷事業際に利根川から権現堂川に流れる水量を調整する為この様な工夫がなされたのです。
古河へ
此処より旧奥州道(日光街道)は利根川を渡り中田宿を経由して下総古河宿へと通じていました。
鎌倉街道中道
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