(新宿区戸山戸山公園)
世田谷、江古田方面へ向かう道筋から分岐した一方の鎌倉街道中道は等々力、渋谷、千駄ヶ谷を通り新宿、高田馬場方面へ延びていました、千駄ヶ谷から先新宿御苑の園内を通過して戸山公園へと向かい雑司ヶ谷を抜けて滝野川で旧中山道と交差していたのです。
新宿御苑
鎌倉街道中道本道は新宿御苑内を通過していました。
中世の頃に現新宿御苑は鎌倉街道中道と旧甲州道の交差地点であり交通の要所でした、1590年(天正18年)北条氏滅亡後に江戸に入府した徳川家康は内藤清成をこの地へ警備の為に駐屯させます、その後清成は此処に屋敷を構え現新宿御苑付近を領有したと云われています。
多武峰内藤神社
新宿御苑の東側に在りこの一帯が内藤氏の屋敷でした、内藤清成は先祖の藤原鎌足を供養する為に屋敷内に多武峰神社を建立したとされています。
靖国通りから大久保通りへ向かう鎌倉街道中道本道
街道筋は新宿御苑から明治通りと平行して靖国通りの新宿北1丁目交差点付近を越え大久保通りへと北上していました。
山吹坂
大久保通りに向かう途中新宿駅北側から延びる職安通り抜弁天交差点の手前に西向天神が在りその境内脇の石段を山吹坂と呼んでいます、太田道灌と里娘紅皿の山吹の歌にまつわる伝説がこの地にあり紅皿の碑が石段上の大聖院に建っている事から山吹坂と言われています、此処も山吹の里の伝承が残る地です。
厳島神社
(鹿島神社から見た街道筋)
職安通り付近旧街道筋の西側は緩やかな丘状の地形と成りその上手(抜弁天交差点南側)に厳島神社が在ります、源義家が奥州征伐の時に富士を望むこの高地に戦勝を祈願して安芸の厳島神社を祀ったとされています。
戸山公園
大久保通りを越えると街道筋は現戸山公園の園内を通過します、此処戸山公園は鎌倉初期の御家人和田義盛の所領であり後に江戸期尾張藩の江戸下屋敷と成りました、約450000㎡の屋敷には巨大廻遊式庭園が造られていました、中央に大泉水池を掘り橋が架けられて茶屋が設けられ更に山、渓谷などが在り東海道小田原宿を再現した町並みが造られていました。
(箱根山)
箱根山は大泉水池を掘った時の土砂を積み上げてた人口の山で園内最高峰の山です。
滝野川方面へ
戸塚公園から先鎌倉街道中道は雑司ヶ谷、東池袋を抜けて北区滝野川へと向かいます。
(新選組、近藤勇の墓)
東池袋の先から旧街道筋は明治通り沿いを通っていました、途中中道本道から少しはなれJR板橋駅へ向かいます、駅ロータリー脇に新鮮組近藤勇の墓が建っています、千葉県流山で新政府軍に投降した近藤勇は中山道板橋宿に護送され後にこの地で処刑されました、この付近は板橋宿の東端で江戸期に処刑場のあった場所と云われています。
旧中山道との交差地点
中道本道へ戻り明治通りを北東へ進むと掘割交差点で庚申塚通りと交差します、その庚申塚通りが旧中山道です。
掘割交差点の地名から考えるとこの付近は掘割状の道筋と成っていたのでしょう、交差点は明治通り(鎌倉街道中道)の緩やかな坂道を上り詰めた所に在り大凡この坂道辺りが掘割状の道であったと思われます。
鎌倉街道中道
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