関東、温泉と旅行記 | 横浜、鎌倉方面 | |||||||||||||||||||
(建長寺三門) | ||||||||||||||||||||
中世鎌倉市街地から鎌倉街道中道に出るには鶴岡八幡宮の西側(現在の自動車お被所前)から北西方向に曲がる道筋を進み巨福呂坂を越えるか亀ヶ谷切通を通り長寿寺の脇に出るか二通りのルートがあり丁度出た先から武蔵路(鎌倉街道中道)となります。 | ||||||||||||||||||||
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巨福呂坂 | ||||||||||||||||||||
(巨福呂坂入口付近、 巨福呂坂送水管路ずい道、) | ||||||||||||||||||||
巨福呂坂は鶴岡八幡の西側から北西へ曲がる上り坂を進みます、当初巨福呂坂は小袋坂と呼ばれ何時の頃からかは定かではありませんが巨福呂坂と明記される様になりました、少し登ると1922年(大正10年)に旧日本海軍によって掘削された水道トンネル巨福呂坂送水管路ずい道の口が在ります、この水道トンネルは丁度巨福呂坂の真下に掘られたずい道です、巨福呂坂へは右写真のトンネル口の右側の道を進みます。 | ||||||||||||||||||||
(聖天坂と通行止め地点) | ||||||||||||||||||||
ずい道から少し坂を登ると左に青梅聖天社の鳥居が見えてきます、この辺りの坂道は青梅聖天社にちなみ聖天坂と呼ばれていました、そこから更に進むと道幅は急激に狭くなり通行不可と成ります、この先のルートは不明な点が多いのですが大凡現在の県道21号線巨福呂坂洞門の上に通されつづら折状に建長寺前に下りそこから明月院付近ないし現在の北鎌倉駅の北側までを峠道としていたと云われています。 | ||||||||||||||||||||
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建長寺 | ||||||||||||||||||||
(建長寺総門) | ||||||||||||||||||||
巨福呂坂は建長寺前へと出ます、鎌倉中心地から山を越えたこの辺りは中世の時代には鎌倉の防衛線の外と成ります。 鎌倉五山第一位の建長寺は1253年(建長5年)に鎌倉幕府執権北条時頼によって創建された禅寺で南宋からの帰化僧大覚禅師の開山でした、当時日本には蒙古軍により祖国南宋を追われて帰化した僧が数多く在住していました、建長寺内も標準的に漢語が使われるほど帰化僧が多数在寺して二代目住職も帰化僧であったと云われています。 |
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長寿寺(亀ヶ谷坂出口) | ||||||||||||||||||||
建長寺から200m程先に長寿寺が見えてきます、亀ヶ谷坂はこの長寿寺の脇へと通じています、長寿寺は鎌倉公方職(室町期関東において室町幕府将軍職と同等の権限を持った役職)足利基氏が父足利尊氏の菩提を吊ため建立したと云われています。 | ||||||||||||||||||||
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浄智寺 | ||||||||||||||||||||
県道21号線を進み横須賀線の踏切を渡り左方向へ曲がる道を50m程進むと鎌倉五山第四位の金宝山浄智寺が在ります、浄智寺の開山は1281年(弘安4年)以後と云われ開山当時に南州宏海が招かれたのですが宏海はその責任重しととらえ師である大休正念を招いたと云います、大休正念も既に他界した師である南宋の名僧兀庵普寧を開山の僧として入仏供養を行いました。 | ||||||||||||||||||||
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東慶寺 | ||||||||||||||||||||
県道21号線に戻り更に進むと東慶寺の三門が左に見えてきます、東慶寺は鎌倉幕府八代執権北条時宗の夫人覚山志道尼により開創された寺で当時は妻から離縁を求める事ができない時代であったのですが東慶寺に駆け込めば離縁できる女人救済の寺でした。 | ||||||||||||||||||||
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明月院 | ||||||||||||||||||||
横須賀線の踏切まで戻って横須賀線の反対側を進んでみます、踏切わたりすぐのY字路を曲がり少し進むと小川が流れています、その小川沿いの道を進むとあじさい寺で知られる明月院が在ります、明月院は室町初期に関東管領山内上杉憲方により創建され開山を密室守厳としました、この辺りの地名は山ノ内で鎌倉公方の補佐役である関東管領山内上杉氏の鎌倉居館の在った場所です。 | ||||||||||||||||||||
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円覚寺 | ||||||||||||||||||||
先程きた道に戻り北鎌倉駅に向かうと途中鎌倉五山第二位の円覚寺の石段が在ります、円覚寺は1282年(弘安5年)北条時宗が南宋の高僧無学祖元を開基として招いて元寇役の戦没者供養の為に創建したと云われています、建長寺の大覚禅師、円覚寺の無学祖元の様に蒙古軍に責め滅ぼされた南宋からの帰化僧を鎌倉幕府は積極的に受け入れていました、円覚寺では文永の役、弘安の役で戦没した日本兵のみならず蒙古兵も供養されています、蒙古軍の大半は南宋、高麗の出身兵であった事から無学祖元は同胞の死と捉えたのでしょう、また無学祖元は弘安の役の一ヶ月前に蒙古軍の再来を予言していたとも云われています。 | ||||||||||||||||||||
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鎌倉街道中道 | ||||||||||||||||||||
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