(利根川、中田宿) | ||||||||||||||||||||
旧奥州街道、旧日光街道は利根川を渡り武蔵国から下総国に入ります、下総国の玄関口中田宿は常陸国、武蔵国、下総国の三国の国境に位地して江戸期に利根川対岸の栗橋宿と合宿で一対の宿場町でした、江戸後期には大凡の人口が400人程の中規模の宿場となり本陣一軒、脇本陣一軒が宿内にありました。 | ||||||||||||||||||||
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利根川の渡場 | ||||||||||||||||||||
江戸期まで中田宿は現在の中田商店街より南西方向に町並みが在りほぼ渡場付近に位地していました、当時渡場では船渡がなされ将軍の日光参拝時には利根川に船橋が臨時にかけられたと云います。 | ||||||||||||||||||||
(徳川将軍の日光社参時にかけらた船橋) | ||||||||||||||||||||
将軍の日光社参拝は19回行われました、その都度栗橋宿と中田宿の渡場間に船橋がかけられ利根川河川には警備の為に軍船が配備されました。 | ||||||||||||||||||||
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宿内を抜ける街道筋 | ||||||||||||||||||||
利根川を渡ると中田宿の家屋が軒を連ねていました、中田宿の発祥は日光街道の整備に伴い上中田村、下中田村、上伊坂村の各村落と対岸の栗橋宿を合併させて宿場としたのがはじまりです。 | ||||||||||||||||||||
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鶴峰八幡神社 | ||||||||||||||||||||
鶴峯八幡神社は中田宿の鎮守で源頼朝または鎌倉二代将軍頼家が鶴岡八幡宮の社主高橋家に命じて創建したと云います、当初社殿は渡場付近に鎮座していましたが大正期の利根川改修工事の際に当初の北西方向の現在地の中田丁字路近くに移転しました。 | ||||||||||||||||||||
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光了寺 | ||||||||||||||||||||
鶴峯八幡に隣接する光了寺は当初武蔵国高柳村(埼玉県久喜市)に在り天台宗高柳寺と称していました、鎌倉初期に住職の円崇興悦が親鸞上人の弟子と成り浄土真宗光了寺と改名したと云います、その後光了寺は栗橋に移転し更に中田宿へと移転されました、栗橋在寺当時には栗橋宿に祀られている静御前の墓は光了寺内に在り静御前のゆかりの寺でありました。 | ||||||||||||||||||||
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中田宿北の鍵の手状の街路地 | ||||||||||||||||||||
江戸後期中田宿は115軒の家屋が大凡500m程連なっていました、その北側の宿出口付近は宿場の治安を考慮した鍵の手状の町並みと成っていました、またこの辺りには小規模な旅館が数軒立ち並んでいたと云います。 | ||||||||||||||||||||
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旧奥州街道、鎌倉街道中道と旧日光街道の分かれ道 | ||||||||||||||||||||
利根川の堤防を下り利根川堤の交差点に向かう途中に細い路地が車道から分かれています、此処が旧奥州道、鎌倉街道中道と旧日光街道の分かれ目です、旧日光街道はそのまま直進して利根川堤交差点へ向かい旧奥州道と鎌倉街道中道は細道となります。 | ||||||||||||||||||||
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静橋 | ||||||||||||||||||||
旧日光街道を進むと小川に橋が掛かっています、この橋は静橋と呼ばれ静御前がこの橋を渡った事でついた橋の名であるそうです、当初静橋は旧奥州道、鎌倉街道筋に在ったものをここへ架けかえたと云われています。 この道筋は現在の中田商店街へと向かっています、鶴峯八幡神社、光了寺はこの先です。 |
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北上する旧奥州街道と鎌倉街道中道 | ||||||||||||||||||||
(新道と並行する旧街道筋) | ||||||||||||||||||||
道を旧奥州道、鎌倉街道の細道へと戻り先へ進むと古河市街へ向かう新道と交差してその先新道と並行するかたちで北上します、交差路には石碑が立ち並び旧街道筋の面影を留めています、そこから500m程先で旧道(細道)は新道と合流しています。 | ||||||||||||||||||||
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駒塚古墳 | ||||||||||||||||||||
新道と並行する旧街道を進みJRの高架を潜った先の東方向に駒塚古墳が見えてきます、駒塚古墳は6世紀以降に築造された円墳で風化によりかなり形状が崩れていますが元は周掘を含み直経40m程ありました。 | ||||||||||||||||||||
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古河公方館 | ||||||||||||||||||||
(古河公方館) | (古河公方館三ノ郭) | |||||||||||||||||||
街道筋を古河市街へ向かって北上する途中西方向に古河総合公園が在ります、古河総合公園は古河公方足利氏の居館跡でした、鎌倉公方(室町期の関東においての将軍職)足利成氏は関東管領山内上杉氏と対立して1454年(享徳3年)享徳の乱を罰発させます、成氏は結城、小山、宇都宮、佐竹氏の支援を受けて下総古河に退去し自らを古河公方と称して関東に独立政権を確率させようとします。 古河公方館の三ノ郭には家臣団の屋敷群が建ち並び旧奥州道、鎌倉街道中道はこの三ノ郭に通されていました、三ノ郭の家臣団屋敷群は古河宿の前進です。 |
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(古河公方館水掘) | ||||||||||||||||||||
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旧中山家住宅、旧飛田家住宅 | ||||||||||||||||||||
(旧中山家住宅と旧飛田家住宅) | ||||||||||||||||||||
総合公園内の丁度古河公方館の二ノ郭の位地に二軒の移築民家が在ります、一軒は旧中山家住宅でもう一軒は旧飛田家住宅です、中山家住宅は茨城県岩井市の中山氏により寄贈されました、茨城猿島地方の「すぐや」という造りで建築年代は大凡17世紀後半です、飛田家住宅は茨城県久慈郡にありましたが事情によりこの地に移築されました、建築年代は大凡18世紀前半と推測され家屋の造りは所謂東北南部地方によく見られた「曲り屋」です、馬屋と家屋をL字に一体としたこの家屋が関東にも存在していたのです。 | ||||||||||||||||||||
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鎌倉街道中道 | ||||||||||||||||||||
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