(世田谷ボロ市通り代官屋敷表門)
鎌倉街道中道本道は二子から多摩川を渡ると大まかに二方向へ分岐します、一方は世田谷豪徳寺から江古田へ向かい板橋を抜けて赤羽へ通じる道筋でもう一方は等々力、五本木、高田馬場を経由して滝野川、東十条、赤羽へとつながっています、双方街道筋ともに赤羽岩淵の付近で合流し荒川を渡り川口へと向かっていました。
世田谷豪徳寺
世田谷は15世紀後半今川氏の家臣であった吉良氏により開拓されました、現在の豪徳寺は吉良氏の居城世田谷城です、等々力方面へ向かう街道筋と分れた世田谷、江古田回りの街道筋は大山道と合流して上町方向から世田谷城下へ向かっていました。
(世田谷城外堀)
世田谷城の遺構は現在城址公園とその付近と限られています、また豪徳寺西側の東急世田谷線の路線は世田谷城の外堀であったと云われています。
(世田谷城外堀跡を走る東急世田谷線)
世田谷城下元宿、上宿、下宿
世田谷城下は鎌倉街道中道の宿場で豪徳寺(世田谷城)東の区役所付近の元宿でした、しかし吉良氏が世田谷方面を統治開拓する事により世田谷の人口も増え宿場を往来する人の数も多くなり新たに南方向の街道筋に新宿を設けます、しかし此処も満杯に成り吉良氏は経済の活性化を図り新宿を上町方面の上宿とその東側の下宿に二分したのです。
新宿
中道本道は上宿(上町)の西口から東口へ向かい元宿(市役所方面)に続く道筋と下宿を経て若林方向へ続く道筋に分かれていました、双方の道筋は笹塚で合流します、また下宿を抜ける道筋は江戸期の大山道です。
上宿ボロ市通り
(上宿から見た世田谷城)
上宿の西側で中道本道と中道登戸道が合流しています、その関係上上宿は人の往来も多くなり宿を利用する人も増え更に発展したのです、1578年(天正6年)小田原北条氏は此処上宿で楽市を開く事を命じます、楽市は中世各地で開かれた月数回の定期市とは異なり常時開かれる市で税も掛かりません、北条氏は地域経済の活性化の為に上宿で楽市を開いたのです。
(上宿代官屋敷と上宿ボロ市通り)
上宿の楽市では古着なども売られていた事からこの市をボロ市と呼ぶ様になりました、当初常時開かれていたボロ市ですが江戸期に入り市立を年末年始に定められ現在に至ってます。
(現在のボロ市)
東急世田谷線上町駅
(開業当時のデハ80系、江ノ電時代の600系)
世田谷線上町駅は1925年(大正14年)に玉川電鉄の支線として三軒茶屋~世田谷間及び世田谷~下高井戸間の開通に伴い開業されました、開業当時の上町駅は上宿の丁度西端でした。
(世田谷線上宿駅)
鳥山川
上宿と世田谷城の間に烏山川が流れていました、世田谷城在城当時には烏山川は城の外壕の役割を果たしていました、現在遊歩道と成りかつて河川は地下を流れています。
元宿
現在の豪徳寺東側市役所付近が元々の世田谷の宿場です、一方の中道はこの宿を通過して笹塚、中野、江古田へと向かっていました。
鎌倉橋
下宿を通り抜ける道筋は若林で青葉台、渋谷方面に向かう大山道から分かれ笹塚へと北上します、途中代田に鎌倉橋と言う橋が在ります、鎌倉橋と呼ぶ橋は各地に在りますが鎌倉街道筋が此処を通っていたのでそう呼ぶ様に成ったのでしょう。
江古田方面へ
世田谷回りの鎌倉街道中道は中野を経て江古田へと通じていました。
和田山(哲学堂公園)
鎌倉幕府草創期に平家討伐、奥州遠征当で功績があった和田義盛は北条氏と対立し滅亡しました、此処哲学堂公園一帯は和田山と呼ばれ和田氏の館址とされています、確証は無いのですが段丘状の地形などから考えて館であった可能性はあると考えられます。
江古田、沼袋の古戦場の碑
哲学堂公園から新青梅街道を西へ2,300m進むと江古田公園内に江古田、沼袋の古戦場の碑が建っています、1477年(文明9年)長尾景春の乱に措いて関東管領山ノ内、扇谷上杉氏に対抗し長尾景春に組した秩父党の豊島氏は上杉方の太田資長(道灌)とこの地で激戦し一族150名の戦死者を出して敗退し居城石神井城へと後退したのです。
江古田から先の世田谷、江古田回りの街道筋は板橋を越えて赤羽岩淵で高田馬場回りの道筋と合流します。
鎌倉街道中道
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