(横浜市旭区こども自然公園大池) | ||||||||||||||||||||
横浜市戸塚区と旭区の境界はその昔万騎ヶ原と呼ばれ武蔵国、相模国の国境でした、中世此処万騎ヶ原には鎌倉街道中道本道が旭区鶴ヶ峰に向かって延びていたのです、鎌倉街道中道は鎌倉から亀ヶ谷坂または巨福呂坂を通り北鎌倉、戸塚、世田谷、岩淵、川口、幸手、栗橋、古河を抜けて奥州へと通じる中世の主要幹線道でした、その後中道は岩槻街道と呼ばれ更に江戸期には江戸から幸手間を日光街道の脇道として整備し日光御成道と称されたのです。 | ||||||||||||||||||||
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相、武境の都塚 | ||||||||||||||||||||
現戸塚カントリークラブの東を通る公道は鎌倉街道中道本道でした、戸塚区から旭区大池町に入る辺り都塚と言う祠があります、往古此処が武蔵国と相模国の境目であったのです、都塚とは此処から鎌倉の古都を遠望できる事からそう呼ばれその脇には(北 二俣川村道、南 鎌倉道、西 相武堺道)と刻まれた古い道標が立っています。 | ||||||||||||||||||||
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都塚付近の街道筋 | ||||||||||||||||||||
この辺り道筋は尾根上に通されていました、街道は現状舗装整備された状況ですが昔は掘割状の道筋と成っていたのでしょう。 | ||||||||||||||||||||
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大池 | ||||||||||||||||||||
尾根上の道筋を都塚から少し進むとこども自然公園の脇に出ます、この自然公園の大池はその昔二俣村本宿の溜池で歴史は古く1205年(元久2年)北条時政の軍勢がこの池で炊き出しをしたと記録に残っています、その後江戸期に池は拡張され現在の大きさに成ったそうです。 | ||||||||||||||||||||
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大山道との交差地点 | ||||||||||||||||||||
大池付近の公園入り口は江戸期、中道と大山道(神奈川県伊勢原市大山阿夫利神社参拝の街道筋)交差地点で昭和53年(1978年)まで三叉路でありました。 | ||||||||||||||||||||
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二俣川 | ||||||||||||||||||||
(二俣川古戦場址と古戦場の碑) | ||||||||||||||||||||
JR相鉄線鶴ヶ峰駅を下車して区役所方面に向かって駅前通りを西に進むとと二俣川と帷子川が合流しています、中世此処には中道の二俣川宿が在り交通の要所でした。 1205年(元久2年)平家討伐など鎌倉幕府草創の頃に幕府に功績があった畠山重忠は幕府内部の北条家独裁を狙う北条時政の軍勢に此処二俣川で待ち伏せを受けて討ち死にしました、二俣川の合戦です。 |
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二俣川宿と鎧橋 | ||||||||||||||||||||
(二俣川本宿と鎧橋) | ||||||||||||||||||||
明治期横浜水道施設の水路と帷子川が合流するこの地に架けられた橋が鎧橋です、その名の由来は此処から少し西方に鎧の渡と呼ばれる渡し場が在った事からそう呼ばれたと云われています、二俣川本宿はこの辺りから二俣川に向かって軒を連ねていました。 | ||||||||||||||||||||
(鎧の渡場) | ||||||||||||||||||||
現在の旭区役所付近の川辺が渡し場でした。 | ||||||||||||||||||||
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畠山重忠首塚 | ||||||||||||||||||||
鎌倉に謀反人ありと知らせを受けた重忠は一族134騎を率いて二俣川に辿り着いたのですが北条軍1000騎に待ち伏せをされ討ち死にし此処首塚で首をきられました、源頼朝以来の幕府功労者であった重忠は幕府内で重役にあり北条家独裁政治の邪魔な存在で北条時政、政子に落とし入れられたのです、又比企能員、和田義盛などの幕府重職者達もこの時期北条家に殺害されています。 | ||||||||||||||||||||
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六ツ塚公園 | ||||||||||||||||||||
鶴ヶ峰駅付近には畠山重忠に関する史跡が幾つかあります、この六ツ塚公園は畠山一族が最後に追い詰められ討たれた地で一族六人を埋めた場所です。 | ||||||||||||||||||||
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籠塚 | ||||||||||||||||||||
畠山重忠が鶴ヶ峰で北条軍と決戦する事はいち早く居城菅谷館の重忠婦人に知らされた、婦人は籠で重忠の後を追い鎌倉街道中道を進み此処籠塚付近で重忠が討ち死にした事を知り籠の中で自害しました。 籠塚のすぐ脇が鎌倉街道中道です。 |
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白根不動尊 | ||||||||||||||||||||
(境内の白滝) | ||||||||||||||||||||
境内を鎌倉街道中道が通っていました、社殿は新田義貞の鎌倉攻めの際に焼失したと言われています。 | ||||||||||||||||||||
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鎌倉街道中道 | ||||||||||||||||||||
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