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防護巡洋艦「秋津州」は日本海軍が1889年度の拡張計画においてイギリス防護巡洋艦「ボルチモア」を手本に設計から建造まで日本国内で一環して行われた巡洋艦でした(鉄材のみ輸入)、当初「松島型」の4番艦として計画されていましたが計画を変更し新規に設計、建造がなされています。 | ||||
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防護巡洋艦秋津州の規模、装甲、機関 | ||||
秋津州の全長は92m、排水量は3150tで当初計画されていた松島型と比較して一回り小ぶりな船体でした。船体的には多少欠陥があり横揺れが非常に激しかったそうです。 | ||||
装甲は主甲板で76mmでした、防護巡洋艦なので装甲は船体側面では無く船体内部に傾斜をもたせ機関部、弾薬庫を被いかぶせる様に張られていました。 | ||||
主機は石炭専用のボイラーを6基に三段膨張レシプロ機関を2基、スクリュー2基で8400hp、最大速力19ノットを発揮します、この速力は日清戦争時に防護巡洋艦「吉野」の次ぐ速力でしたが機関の効率が悪く燃費はあまり良くなかったそうです。 | ||||
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秋津州の主砲、副砲 | ||||
(艦首弦側主砲2門と艦首甲板上副砲1門) | (艦尾弦側主砲2門と艦尾甲板上副砲1門) | |||
秋津州の主砲はアームストロング社製の1892年型40口径15.2cm砲を艦首と艦尾の両弦側に1基づつの計4門配備されています、この40口径15.2cm砲は開発されたばかりのもので後々、戦艦三笠、敷島などの副砲にも採用されています、最大射程は9.1kmで1分間に最大7発の発射が可能でした。副砲は同じくアームストロング社製の40口径12cm砲で艦首、艦尾の甲板上に1門づつ、両弦側に2門づつの計6門が配置されています。 | ||||
(左舷側の12cm砲2門) | (艦主方向へ向けられた15.2cm砲2門と12cm砲1門) | |||
この配置により艦首と艦尾方向へは15.2cm砲が2門づつ、12cm砲が1門づつ、弦側には15.2cm砲が2門づつ、12cm砲が4門づつ向けられます。 | ||||
(左舷側に向けられた15.2cm砲2門と12cm砲4門) | ||||
更に対水雷艇用にフランスの機銃メーカー「オチキス社」製の47mm機関砲が8門配備されています。余談になりますが文房具のホチキスは機銃メーカーオチキスが機関銃を元に開発したそうです。 | ||||
(艦首、艦尾船体側面に配置された47mm機砲) | ||||
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秋津州の艦歴 | ||||
秋津州は1894年3月に就役、その4ヶ月後の7月25日に日清戦争が勃発します、秋津州は日清戦争の引き金となる豊島沖海戦に丁度居合わせていました。同年9月17日に連合艦隊と清国北洋艦隊の決戦である黄海海戦に秋津州は第一遊撃隊として参戦、旗艦「吉野」、「高千穂」に次ぐ3番手を随行しています、その後続は「巡洋艦浪速」でそれら4隻は日本海軍の誇る高速巡洋艦隊でした。 日清戦争後に秋津州は義和団事変、日露戦争で活躍、日露の海戦では黄海海戦、日本海海戦、樺太作戦に加わっています。 第一大戦ではドイツ帝国の東アジア拠点「青島」攻略戦に参加、大戦終了後には特務艦となり1927年老朽化に伴い除籍、解体されてます。 |
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防護巡洋艦秋津州 | ||||
基準排水量 | 3150t | 兵装 | ||
全長 | 92m | 40口径15.2cm砲 | 4門 | |
最大幅 | 13m | 40口径12cm砲 | 6門 | |
47mm機関砲 | 8門 | |||
機関 | 三段膨張レシプロ機関2基2軸推進 | 35.6cm水中魚雷発射管 | 4基 | |
最大速力 | 19ノット | |||
最大出力 | 8400hp | 1890年3月起工 | ||
1892年7月進水 | ||||
装甲厚 | 1894年3月就役 | |||
主甲板 | 76mm | 1927年7月除籍 | ||
砲防弾盾 | 114mm | |||
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