近代の軍艦史 |
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1901年ロシア帝国の艦隊装甲艦ペレスヴェート級一番艦ペレスヴェートが就役します(同型艦にオスリャービャ、ポペーダ)、艦隊装甲艦とは装甲巡洋艦の拡張型で攻撃力と防備が戦艦より劣るかわりに速力、巡行性能に優れ、後の巡洋戦艦の祖となる艦です、しかし日露戦争を目前にしていた日本海軍はこれら艦隊装甲艦を戦艦と認識していました。 |
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戦艦ペレスヴェートの船体、装甲、機関 |
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ペレスヴェートの規模は基準排水量12674t、全長129.2m、最大幅21.8mで大よそ当時の戦艦(前弩級戦艦)に匹敵する大きさです、また船体構造は弦側水線部から甲板部にかけて船体側面が引き締められた構造になっています、これは甲板部を引き締める事で船体重量を軽減する為です。 |
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装甲の厚さは弦側水線部229mm、甲板部最大76mm、主砲搭全面229mmで船体内部には63mmの傾斜装甲が施されています、更に装甲版には表面強度を増強したクリップ鋼を使用している為にその防御力は十分なものでした。 |
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推進機関は30基の石炭専焼ボイラーで3基の三段膨張式往復機関を発動し3枚のスクリューを回転させ最大出力14500hp、最大速力18ノットを発揮させます、また船体の軽量化により航続距離が各段延長され石炭満載時で10000海里(速力10ノットで走行)の航行が可能です、ロシア海軍ボロジノ級戦艦5000海里、日本海軍敷島型戦艦7000海里と比較してもその航続距離がいかにのびたかわかります。 |
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主砲45口径25.4cm砲 |
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(艦首と艦尾の甲板上に配置された45口径25.4cm連装砲塔2基) |
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ペレスヴェートの主砲は45口径25.4cm砲でこれを連装砲塔に収め艦首と艦尾の甲板上に配置しています、当時日本海軍は日露の海戦へ向けて口径30cm砲搭載に戦艦をイギリスに発注していた事からこの口径25.4cm砲では海戦の際に不十分であるとロシア海軍はとらえ口径30.5cm砲を搭載した戦艦ツェサレーヴィチ、戦艦レトヴィザン、戦艦ボロジノ級の建造に至るのでした。 |
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(右舷方向に向けられた45口径25.4cm砲4門) |
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45口径15.2cm砲 |
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(右舷側に配置された45口径15.2cm砲5門) |
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ペレスヴェートの副砲は45口径15,2cm砲です、これを片弦船体側面に砲郭に収め5門づつの両弦合わせて10門配備されています。 |
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50口径7、5cm砲 |
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(右舷船体側面の50口径7.5cm砲10門) |
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対駆逐艦、水雷艇用として50口径7,5cm砲を片弦船体側面に10門づつの両弦合わせて計20門配備されています。 |
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戦艦ペレスヴェートの艦歴 |
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1901年6月、戦艦ペレスヴェートはサンクトペテルブルク造船所で竣工され就役後に極東へむけて出港します、同年10月に旅順港へ到着、旅順艦隊に所属しました。1904年8月9日、日本海軍陸戦重砲隊による砲撃で旅順港の戦艦ツェサレーヴィチ 、戦艦レトヴィザンが損傷受けます、それによりロシア旅順艦隊司令長官「ヴィリゲリム・ヴィトゲフト」は艦隊をこのまま旅順においておくのは危険と判断しウラジオストックへの回避を決断しました、翌8月10日、艦隊は旅順港を出港、ペレスヴェートも此れに追従します、しかし日本艦隊と遭遇し砲撃を受けて旅順艦隊はチリジリに逃走をはかりペレスヴェートにおいては旅順港へ引き返しています。
1804年12月上旬、乃木司令官の指揮する日本陸軍第三軍は28cm榴弾砲で旅順港を砲撃、この砲撃によりペレスヴェートは大破着底します、旅順要塞降伏後にペレスヴェートは日本海軍により捕獲され日本海軍に編入、戦艦「相模」と改名されました。 |
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(第三軍の砲撃で大破着底するペレスヴェート) |
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日本海軍編入後に相模は1等戦艦に分類されています。この時点で捕獲した他のロシア海軍の戦艦と現存の日本海軍の戦艦を合わせて9隻の戦艦を保有する事となります(敷島、富士、三笠、朝日、石見「戦艦オリョール」、相模「戦艦ペレスヴェート」、 丹後「戦艦ポルタヴァ」、肥前「戦艦レトヴィザン」、周防「戦艦ポベーダ」)。しかしその後相模はロシア海軍への返還が決まり艦名をペレスヴェートへ戻して日本海軍籍より削除されました、返還されたペレスヴェートですが1916年5月23日ウラジオストック港外で座礁し日本海軍が救出、修理を行いまたも日本海軍へ戻されています、日本海軍へ戻されたペレスヴェートですが第一大戦最中の1917年1月4日白海を航行中にドイツ潜水艦の設置した機雷に触れ沈没しました。 |
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戦艦ペレスヴェート |
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基準排水量 |
12674t |
兵装 |
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全長 |
129.2m |
45口径25.4cm連装砲塔 |
2基4門 |
最大幅 |
21.8m |
45口径15.2cm砲 |
10門 |
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50口径7.5cm砲 |
20門 |
機関 |
石炭専焼水管30基、
三段膨張式レシプロ機関3基、3軸推進 |
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最大速力 |
18ノット |
1895年11月起工 |
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最大出力 |
14500hp |
1898年5月進水 |
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1901年8月就役 |
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装甲厚 |
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1905年8月日本海軍に編入 |
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弦側水線部 |
229mm |
1917年1月4日戦没 |
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甲板部 |
最大76mm |
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船体内部傾斜装甲 |
63mm |
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主砲搭全面 |
229mm |
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