府中宿は江戸日本橋から7里半に位置して近隣集落の中心地でありました、1843年(天保3年)の時点で人口3000人、旅館29軒、本陣1軒、脇本陣2軒、商家142軒、と比較的規模の大きい宿場町でした、府中宿の歴史は古く奈良期の初めの律令体制下で武蔵国衙が現在の大国魂神社におかれます、当時国府の役人と家族、兵士、職人などが国府に居住しその後府中宿は武蔵総社大国魂神社である門前町として発展したのです、府中宿は新宿、番場宿、本宿の三町により構成され現在の宮町が新宿、宮町町が番場宿、本宿町Y字路付近が本宿でした。 | ||||||||||||||||||||||||
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大国魂神社と武蔵国衙 | ||||||||||||||||||||||||
府中宿の甲州街道筋は現在の都道229号線と同じ道筋です、宮町の西端に位置する大国魂神社は大化の改新の後に府中市内に国府がおかれるとその祭祀を行う武蔵国総社となります、丁度大国魂神社の付近に国衙があり神社の東沿いに前殿、脇殿などの庁舎が建てられていました。 | ||||||||||||||||||||||||
(武蔵国衙庁舎跡) | ||||||||||||||||||||||||
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大国魂神社前のケヤキ並木 | ||||||||||||||||||||||||
大国魂神社の大鳥居前に500mに渡りケヤキ並木と成っています、このケヤキは奥州安倍一族を討伐した源頼義、頼家の親子が戦勝を祝して植えたものでその正面には「従是一之鳥居迄五町」と刻まれた碑が建っています。 | ||||||||||||||||||||||||
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番場宿 | ||||||||||||||||||||||||
番場宿に入ります、 この辺りは鎌倉街道上道との交差路で甲州街道筋と鎌倉街道筋は鍵の手状に屈曲して交わっていました、この鍵の手の交差路は大いに賑わい大道芸人などもいたと云います。 | ||||||||||||||||||||||||
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札の辻と大国魂神社御旅所 | ||||||||||||||||||||||||
鍵の手状の交差路の脇に大国魂神社御旅所(祭などで神輿が休む場所)が在り高札場が建てられていましす、この高札場は鍵の手状の交差路に在る事から「札の辻」 、「鍵屋の辻」と呼ばれていました。 | ||||||||||||||||||||||||
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問屋場と中久本店の店蔵 | ||||||||||||||||||||||||
(問屋場) | (中久本店) | |||||||||||||||||||||||
高札場の通りを隔てた正面の中久本店は蔵造りの商家で1859年(安政6年)の府中宿の大火の後に防火建築として建てられた土蔵です、その中久本店の隣は問屋場で駕籠、人馬などの継ぎ替えも行っていたと云います。 | ||||||||||||||||||||||||
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番場公園と鎌倉街道筋(国鉄下河原線廃路線) | ||||||||||||||||||||||||
(番場公園) | (鎌倉街道筋「国鉄下河原線廃路線」) | |||||||||||||||||||||||
高札場から400m程甲州街道筋を進むと番所を模した府中番場公園が在ります、元々番場宿の地名は「茂右衛門宿」と呼ばれそれが何時の頃か番場宿と地名が変わりました、一説に番所がおかれていた為とも云われています。 番場公園から100m程先で甲州街道は下河原緑道と交差します、この緑道もまた鎌倉街道上道で武蔵国分寺へと通じる街道筋です、 辻の札の鎌倉街道筋とは国分寺の先で合流していました、またこの辺りの鎌倉街道筋は1910年(明治43年)に国鉄下河原線「東京砂利鉄道」の路線とされ利用されましたが武蔵野線開通に伴い廃線となり現在は緑道として整備されています。 |
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高安寺と弁慶橋 | ||||||||||||||||||||||||
(高安寺参門) | (弁慶坂、石橋供養塔) | |||||||||||||||||||||||
下河原緑道の少し先の高安寺は鎌倉の建長寺の末寺で足利尊氏が安国寺として中興しました。 源義経一行が奥州へ向かう途中で弁慶が高安寺の御堂裏手の井戸水で墨をすり大般若経を書写したと云う伝説がありそれにちなんで高安寺正面に弁慶坂、そこから200m西に弁慶橋の地名が残っています、その弁慶坂には石橋供養塔が建てられています。 |
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分倍河原の古戦場跡 | ||||||||||||||||||||||||
(分倍河原の古戦場址) | (京王線分倍河原駅前の新田義貞像) | |||||||||||||||||||||||
京王線の踏切から分倍河原駅が見えます、その分倍河原駅から都道18号線沿いに進み中央高速道の高架を抜けた先が分倍河原の古戦場です、1333年(元弘3年)に鎌倉幕府討伐の為に挙兵した新田義貞は小手指、久米川で幕府軍を撃破しますが分倍河原で幕府方の北条高時、桜田貞国と対陣して大敗し堀兼まで後退します、翌日「関戸」にて義貞軍は幕府軍に奇襲をかけ勝利して多摩川を渡り鎌倉へと進軍しました。 | ||||||||||||||||||||||||
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内藤家冠木門 | ||||||||||||||||||||||||
京王線の踏切を渡ると美好町3丁目でこの辺りから本宿となります、踏切から500m程甲州街道筋を進みと内藤家の冠木門が建っています、内藤家は名主を勤め冠木門は元々府中本陣の御門であったそうです。 | ||||||||||||||||||||||||
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本宿町のY字路と秋葉常夜灯 | ||||||||||||||||||||||||
本宿町のY字路で甲州街道筋は国道20号線と合流して此処から先20号線沿いを進みます、Y字路の中央に説明版がありそれによると江戸初期に甲州街道が開通する以前に街道筋は此処から南を通り本宿は車戸宿と呼ばれ既に宿場であったそうです、そのY字路から200m先の本宿交番の脇に秋葉常夜灯があります、本宿村は水利に乏しく幾度も火災に見舞われた為に秋葉神社に祈願して此処に常夜灯を建てたと云います。 | ||||||||||||||||||||||||
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甲州街道 | ||||||||||||||||||||||||
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