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 日野宿
       
       
 
       
       
 府中宿を過ぎると甲州街道筋は国立インター入口交差点まで国道20号線と同じルートでその先は略都道256号線沿いに日野宿へと向かいます(多摩川付近は反れる)、途中「谷保天満宮」の前を通り現日野橋の南で多摩川を渡り 日野宿まで通じていました。

       
府中熊野神社古墳
       
 
    (熊野神社古墳) 
       
 府中の本宿交番前の交差点から200m程先の右側に熊野神社がありその裏手に7世紀中頃~7世紀後半に築造された熊野神社古墳が復元されています、関東では珍しい上段が円墳で下の二段が方墳の上円下方墳であり前面に葺き石が施されています、築造された時代が丁度「大化の改新直後」で全国に国府がおかれた時代です、その事から当時中央から派遣された武蔵国衙に関係した人物の墓と考えられています。 
 
    (熊野神社古墳石室) 

       
谷保天満宮 
       
 
 甲州街道筋は谷保天満宮の前を通っていました、此処谷保天満宮は菅原道真の三男道武が武蔵国に流された後に父道真を祀る廟を建てたのが始まりです、東日本最古の天満宮として知られています。 
 
 (谷保天満宮裏手の立場茶屋) 
       
 谷保天満宮の裏手は清流豊富な地で江戸末期頃には大きな立場茶屋が建っていました、この立場茶屋の周囲は至る所から湧水が湧き出ていたそうで、その湧水の清水を使い夏場は素麺を出していたと云います。 

       
谷保の城山 
       
 
 谷保天満宮かは西700mの城山公園は菅原道武から数えて7代目の子孫である津戸三郎の居館の谷保城でした、津戸三郎は源頼朝に従い石橋、安房の合戦で戦功をあげています、また南北朝の時代に谷保城は南朝方の城であったそうです。 

       
日野の渡し場 
       
 
 甲州街道筋は都道256号線と日野橋交差点の先で一旦分かれ南方向へと曲ります、曲がった先が多摩川で日野の渡し場でした、この渡し場には常時二艘の平底舟が往来していたと云います。
 
 この日野の渡し場を渡ると日野宿です。 

       
日野宿本陣 
 
 
 日野の渡し場を渡り新奥多摩街道丁字路で甲州街道筋は都道256号線とまた合流し日野宿へ入ります、日野宿は八王子宿を設立した大久保長安により1605年(慶長10年)に開かれた宿場です、丁字路から200m程進むと川崎街道入口信号が在りそこから少し先に日野宿本陣がおかれていました、当初名主であった上佐藤家が本陣を勤め下佐藤家が脇本陣を勤めていましたが幕末に下佐藤家も本陣となり現存する建物はその下佐藤家の家屋でした、下佐藤家の彦五郎は現駐車場に天然理心流道場を建て後の新撰組局長「近藤勇」が天然理心流の宗家を継いで当道場で剣術を教えたといいます、その後「土方歳三」、「沖田総司」ら新撰組の主だった者達がこの道場に入門しています。

 
日野宿問屋場、高札場跡 
       
 
(日野宿問屋場、高札場)   
       
  本陣の斜め向かい側が問屋場、高札場跡です、この辺りが中宿で宿の中心地でした。

       
 渡辺家の蔵
       
 
 本陣から日野二丁目交差点を過ぎた辺りに渡辺家の蔵が建っています、この渡辺家の蔵は中村屋と称して味噌、醤油、酒をあつかう土蔵造りの商家でしたが関東大震災で土壁がにヒビが入り昭和5年に大谷石の張石蔵に建て返られました、バルコニー部は鉄筋コンクリート造りで当時としては真新しい造りの商店であったのでしょう。 

       
 上宿の辻公園
       
 
 都道256号線を進み八坂神社の鳥居を過ぎた向かい側に256号線から反れる細い路地が在ります、この路地が甲州街道筋です、その路地を50m程進んだ所か上宿の辻公園で此処から甲州街道筋が鍵の手状(辻道)に南方向へ曲がっていました、公園前の曲り角は当時と同じでその曲り角から現在のJR中央線の日野駅前まで街道筋が延びていました。

 
 甲州街道
 
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