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勝沼宿を過ぎると甲州街道筋は等々力の交差点で国道411号線と合流して栗原宿に入ります、そこから日川橋付近で日川を渡り2km程進んで今度は笛吹橋(笛吹川)を渡って300m程先のY字路で国道から反れて西方向へ進みます、進んだ先でまた国道と合流して石和宿へ入ります、石和宿は国府の地名が残る歴史の古い町で奈良期の頃の律令体制下で国衙もしくは国庁がおかれた甲斐国の中心地でした、戦国期には武田信玄の父武田信虎の代まで甲斐武田氏の本拠地となっていました。 |
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笛吹川、石和の渡し場 |
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国道411号線の笛吹橋付近は渡し場と成っていました、笛吹橋からは南アルプスの山並みが大変綺麗に遠望できます。 |
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笛吹川の聖牛 |
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笛吹川と日川が合流する渡し場付近では聖牛が水流の調整をしていました、中世甲斐国は富士川水系の氾濫に悩まされていたのです、そこで発案されたのが河川の流れる方向を調整して濁流を押さえる聖牛でした。 |
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此処笛吹川の聖牛は武田信玄の指示により配置されたと云います。 |
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甲斐国分寺跡 |
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奈良期の律令体制下において石和周辺は国府がおかれ甲斐国の政治、経済の中心地でした、その為国府の在る石和から近い一宮には国分寺と国分寺尼寺が建立されたのです。 |
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(現在の甲斐国分寺) |
(国分寺尼寺跡) |
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現在の国分寺は奈良期の国分寺跡より南東300mの位置に建て替えられています。 |
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笛吹権三郎の像 |
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笛吹橋から国道411号線を進むと松並木道と成りその先のY字路で甲州街道筋は国道から離れ西方向へと向かいます、そのY字路には笛吹権三郎の像がおかれています、権三郎は鎌倉幕府に反抗し追放された日野資朝の一派である藤原道義の嫡男でした、権三郎は母と共に流刑された父道義を探してこの地に辿り着きました、そんなある時権三郎の母は河川の氾濫にのまれ消息不明と成りその母をさがす権三郎もまた川の濁流にのみこまれ水死します、それ以後その川からは権三郎の吹く笛の音が聞こえてくると云う伝説が残っています。 |
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石和温泉郷 |
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街道筋から少し反れ石和温泉郷を通ります、石和温泉は1961年(昭和36)に開かれた比較的新しい温泉街で道の中央には水路が流れ古い宿場町をイメージしています。 |
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遠妙寺 |
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(葛飾北斎、石和宿) |
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街道筋に戻り先へ進むと甲州街道はまた国道411号線と合流します、合流した辺りから石和宿で宿に入ると直ぐに立派な仁王門の建つ遠妙寺が在ります。 |
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石和本陣跡 |
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遠妙寺の参門から200程先が石和本陣跡です、裏手には古い土蔵が見えます。 |
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石和町民族文化財展示館 |
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(展示館隣の足湯) |
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石和本陣跡から100m程先の石和町民族文化財展示館は小林中氏の旧邸宅土蔵で明治の中頃に建てられたものです、小林中氏は戦後に日本開発銀行初代総裁、東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油株式会社社長、海外技術協力事業団初代会長など幾つもの役を勤め日本の復興に貢献した人物です。
その展示館隣には足湯が設けられています。 |
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石和八幡宮 |
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文化財展示館の斜め向かい側の石和八幡宮は1192年(建久3年)武田信光により甲斐武田氏の宗鎮守に定められました、甲斐武田氏が当初に石和を本拠地としていた為です、その後1582年(天正10年)織田信長により武田氏が滅ぼされると石和八幡は焼き払われ焼失し翌年に入国した徳川家康により再建されています。 |
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川田の道標 |
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国道411号線を進み第二平等川に架かる甲運橋を渡ります、渡り切ると「右、富士山、大山」「左、甲府、身延」と刻まれた川田の道標が建っています、平等川は元々笛吹川流路で1907年(明治40年)の大洪水により笛吹川の流れが東へと大きく変わった為に平等川がその名残と成ったのです、川田の道標の前は渡し場で冬場のみ仮橋が架けられていたと云います。 |
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渡し場近くには船着場が在り笛吹川から富士川を経由して身延山へ向かう廻船が往来していました、身延山へ参拝する旅人は此処で舟に乗る人と徒歩で行く人にわかれていました。 |
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甲州街道 |
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