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荻野一里塚から県道30号線を西に進むと県道は中央高速道の反対側へと渡ります、渡りきった先が戦国期の古戦場である矢坪坂です、矢坪坂辺りから甲州街道筋は県道30号線を反れて山手に入り甲州街道筋の難所「座頭ころがし」を通り抜けて犬目宿へと入ります。 |
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矢坪坂 |
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県道30号線沿いに中央高速道に架かる高架を渡ると矢坪坂です、此処から甲州街道筋は一旦県道から離れて山中に入ります、矢坪坂は1530年(享禄3年)に北条氏縄が此処矢坪坂へ進行し待ち構えていた小山田越前守と対戦ていします、両者激しい激戦の末に小山田氏は退きました、その後付近からは多数弓矢が掘り出されたといいます。 |
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座頭ころがし |
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矢坪坂を上り少し進むと甲州街道筋の難所である「座頭ころがし」を通り抜けます、道は狭く曲りくねり頭上からは石が転がり落ちる危険な山道でした、その昔目の不自由な旅人が無理をしてこの道を抜けようとした為に転落死した伝説が残っています。 |
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犬目宿 |
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座頭ころがしを過ぎると犬目宿に入ります、犬目宿は1712年(正徳2年)此処より下手の集落が現地に移転して宿駅が設立しました、1842年(天保1年)には人口255人。家屋56軒、本陣2軒の脇本陣無し、旅籠15軒の山間の小さな宿場でした。 |
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尾張藩主御常宿跡 |
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犬目宿の東側に尾張藩主御常宿跡があります、尾張藩主の為の陣屋です。 |
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街道脇の石碑、石仏群 |
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西方向へ進むと集落の軒並みが一旦途切れます、丁度軒並みが途切れた辺りの道路から少し反れた高台に石碑と石仏群が建ち並んでいます、石碑には寛政元年と刻まれこの付近で犬目宿は東西に分かれていたのでしょう。 |
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犬目宿西側 |
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犬目宿の西側の集落に入ります、こちら側には本陣、問屋場などがおかれていました、現在も出格子窓の旅館など宿場時代を思わせる建物が幾つか見られます。 |
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問屋跡 |
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犬目宿の西端付近には問屋である大津屋が店を構えていました。 |
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犬目宿本陣跡 |
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大津屋の左斜め向かい側の犬目バス亭辺りに宿内2軒の本陣の内の1軒が建っていました、更に大津屋正面の坂を少し下るともう1軒の本陣がおかれていました。 |
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宝勝寺 |
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犬目宿の西口付近は「鍵の手状」に道が曲りその先には宝勝寺の参門が建っています、宝勝寺には義民兵助の墓が安置されています、兵助は「天保の飢饉」に際して下和田村の武七と共に甲州一揆を起こしました、一揆は鎮圧され武七以下13人の首謀者は投獄、処刑されますが兵助は難を逃れ逃亡生活し1869年(明治2年)に71歳で故郷の犬目宿で没しました。 |
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甲州街道 |
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