関東、温泉と旅行記 |
大月、富士五湖方面 |
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鳥沢宿から先の甲州街道筋は国道20号線と略同じ道で次の猿橋宿へと通じています、猿橋宿で桂川の渓谷に架かる猿橋を渡り中央本線猿橋駅の先で一度20号線から反れて駒橋宿を過ぎた辺りでまた合流します、そこから更に甲州街道筋は300m程先でもう一度20号線から反れて大月宿へ向かっていました。 |
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猿橋宿 |
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猿橋宿は江戸日本橋から数えて18番目の宿場町で桂川の渡し場の宿として発展しました。 |
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猿橋 |
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桂川の断崖、渓谷に架かる猿橋は日本三大奇橋の一つに数えられ当初7世紀に百済国の「志羅呼」が猿王の渓谷を渡る姿を見てこの橋を設計したと云います、しかし実際はこの橋の西隣に架けられている新猿橋付近で渓谷下へ下り桂川を渡っていたそうです、江戸期に猿橋は9回の架け替えと十数回の修復が行われ現在架かる橋は1851年(嘉永四年)に架け替えられた橋を模しています。 |
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(桂川の渓谷) |
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猿橋宿には「忠治そば」と言う名物が今も付近の土産店で売られています、昔、「国定忠治」が追っ手に追い詰められた時に猿橋の上からこの深い渓谷に飛び込んだと云われています、「忠治そば」はそれにちなんだ名物です。 |
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岩殿城 |
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大月宿に入る手前で北側の桂川対岸に岩殿山が見えます、この岩殿山は戦国期に武田信玄の配下にあった小山田氏が甲府盆地の東の守りとして築いた城山(岩殿城)です、1582年(天正10年)武田勝頼は本拠地の新府城 を織田信長の軍に攻められ此処岩殿城に退去しようとしますが岩殿城の小山田信茂は織田に寝返り勝頼の入城を拒否します、勝頼は岩殿城に入れず天目山で自害を果しました。 |
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(岩殿城小口) |
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大月宿 |
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(大月市外がら見た富士山) |
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大月宿は宿内の三島神社の境内に槻の巨木が立っている事から大槻と呼ばれたと云います、宿の西側で甲州街道と富士道が分かれる事から富士山参拝の旅客で大変賑わった宿場です。 |
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大月橋の追分道標 |
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甲州街道筋は大月橋付近で国道20号線とまた合流しています、その大月橋の東詰めに常夜灯と道標が建ってます、此処が甲州街道と富士道の追分で道標には「左富士山道、右甲州道中」と刻まれています。 |
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富士山道 |
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富士山道は追分から甲州街道筋を離れ桂川に沿って南へと延びていました、富士参拝者は白衣を着て管笠をかぶり鐘を打ちながらこの道を通っていました。 |
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下花咲宿一里塚 |
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大月橋を渡り300m程先が下花咲一里塚の跡です、その脇には庚申塚、芭蕉の句の碑がおかれています。 |
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下花咲本陣星野家住宅 |
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花咲宿に入ります、花咲宿は江戸側から下花咲宿と上花咲宿の2宿に分けられていました、その下花咲宿本陣星野家は庄屋、問屋場をつとめた旧家です、現在の本陣建物は1836年(天保6年)に焼失した後に建て替えたもので1880年(明治13年)明治天皇が甲州街道の視察の際に小休した上段の間は現在もそのままの状態で残っています。 |
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甲州街道 |
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