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(中世品川湊イメージ) |
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古代、品河湊は武蔵国府の湊津であったと云われています、鎌倉期には品川氏が御家人として配置され武蔵国内から鎌倉へ年貢及び上納品を海上輸送する為の湊となり更に鎌倉街道の宿場が置かれると大湊など伊勢湾からの廻船または伊勢神宮の神船が頻繁に来航する様になります、南北朝動乱後は品川氏が衰退しかわって鎌倉公方足利氏が品河湊を領有しその湊からの収益が鎌倉府の重要な財源となったのです、この頃品河湊では西国から運ばれた商品の輸送、委託販売から税の徴収に至るまで伊勢方面出身の有徳人「富豪、大商人」で組織された問と呼ばれる商品管理業者が一環して請負っていました、それら問の存在は品河湊以外に下総国古戸、武蔵国六浦にも確認されています、乱世に入ると伊勢神宮の御厨(荘園)は消滅し年貢、貢物の海上輸送が停滞するとそれまで伊勢神宮に握られていた伊勢と東国間の海上交易権はその傘下であった伊勢大湊、桑名湊の問屋衆が握りそれら湊津の自治都市化により東国との交易も更に盛んに成り品河湊は中世江戸城下と並ぶ関東有数の湊津へと発展したのです。 |
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伊勢からの来航 |
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大湊、桑名湊など伊勢湾の湊津から品河湊に来航してきた廻船を伊勢船と呼びそれら伊勢船は大湊、桑名、大浜、沼津、六浦など各主要な湊津を経由して品河へと向かったのです、また伊勢船の寄港地は問の所在地であり経済性、物資調達の面で小田原北条氏、今川氏、武田氏の様な東国の戦国大名達から重要視されていました。 |
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伊勢、品河間の航海日数は各湊津の寄港日数を含めておよそ30日前後でした、品河湊へ入港した大型の廻船は品河の海岸が遠浅であった為に沖合いに停泊していました。 |
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沖合いに停泊した大型廻船からは小型の舟を使用して積荷が陸揚げされます。 |
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問の活動 |
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15世紀中頃から寺社の持つ荘園は乱世の混乱の中で近隣諸氏の押領により衰退します、それまで伊勢、東国間の海上交易権は伊勢神宮が独占していましたが荘園の衰退にともないその勢力が弱まり代わって伊勢神宮の配下で荘園からの年貢、貢物の輸送、海上交易を行っていた問が交易権を握ります、当時の品河湊には紀伊国熊野出身の鈴木道胤、榎本道琳の2名の問の名が見みえます、鈴木道胤は品河湊の支配権をもっていた鎌倉公方足利成氏と関わりをもち廻船、蔵、馬場を所有して商品の輸送、管理保管、委託販売などを行いそれ以外に金融業や品河宿そのものの運営に勤める代官的立場でもありました、この様に関東方面の湊津では伊勢周辺の有徳人が問を営む事がよくあったのです。 |
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荷揚げされた品々の行き着く先 |
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乱世、小田原北条氏、武田氏、里見氏など東国の戦国大名達は武器、兵糧の確保の為伊勢方面からの海上輸送を重視していました、またそれ以外に伊勢方面から来航する廻船には西国や中国大陸からの高価な品も積まれていました、それらの品は品湊、江戸など主要な湊で荷降しされた後に平田舟の様な喫水線の低い小型廻船に積替えられ多摩川から八王子へ、旧入間川「荒川」から入間、比企方面へ、旧利根川「江戸川」から足立、栗橋へと分配されたのです、埼玉県川越市の川越館址、同県比企郡嵐山町の行司免遺跡、同県入間郡毛呂山町の堂山下遺跡からは明国からの渡来銭、青磁器または西国の茶器、鏡などが幾つも出土しています、これらの品は一旦桑名湊、大湊に集められ品河、江戸へと輸送された物と考えられています。 |
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河越氏館からの出土品 比企郡嵐山町の行司免遺跡 毛呂郷の遺構 |
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目黒川河口部 |
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中世目黒川は品川と呼ばれその河口付近は平田舟の様な小型廻船の船着場と成っていました。 |
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当時の目黒川河口は現在とは流路が異なり品河宿の中ほどで大きく北へ流れをかえ現在の天王洲運河付近で湾内へ注いでいました、現状当時の流路の名残が運河として残り屋形舟や遊漁船の停泊地と成っています。 |
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